大熊ワタル気まぐれ日記


2006年01月31日(火)なんだか多忙な旧正月

●日曜はplanBで、デレク・ベイリー追悼のライブに参加。

出演:一噌幸弘(能管)今井和雄(guitar)内橋和久(guitar)大熊ワタル(clarinet) 大倉正之助(大鼓)大友良英(guitar)サム・ベネット(percussion)大上流一(guitar) 高橋琢哉(guitar)竹田賢一(大正琴)田中泯(dance)灰野敬二(voice)巻上公一(voice)吉田達也(drums)近藤等則 (e.trmpet)
トーク:相倉久人、北里義之、平井玄、竹田賢一

…という豪華なラインナップ。
 多士済々のなか、久々のお手合わせや会話を楽しんだ。なかでも内橋氏がさすがの演奏。超多忙もうなずける。火曜日、林さんのライブで一緒なので楽しみだ。
自分の演奏は、ちょっとした段取りの失敗などもあり、不発気味。
 それにしても、デレクの存在の大きさを改めてかみしめた。

●月曜、西荻で、2日のシカラムータ@抱瓶と4日の蠱的態@光座のリハをダブルで敢行。前日が長い1日だったので、準備にやや不安があったが無事終了。とくに蠱的態は、超久々だが、これなら面白くできそうな感じで楽しみだ。
 終了後、関島、川口、中尾、渡辺、みわぞうの各氏と飲食。新年会ですな。例によって檳榔姉妹の断続的笑い爆弾が、中尾君効果で倍増。

●週刊新潮に、18日の下北沢の再開発反対のパレードの様子が載っている。駅前での演奏シーンも小さいけどばっちり写っている。
 面会を断り続けている区長が、当日不在だった理由が、なんと建築業界の新年会出席のためだったらしいことが発覚。公務中にもかかわらず、なんと友誼に厚いことだろう。このまま逃げ切れると思うな!
写真レポートはこちら。

[link:25] 2006年01月31日(火) 06:05


2006年02月02日(木)しびれライブ2題

1月31日
林栄一、大熊、内橋和久、吉田達也のすごいカルテット@マンダラ2
 火曜日でしかも寒い雨とあって、動員は…。
 が、見返りはなくとも、余りある楽しい演奏ができ、しびれまくった。
 林さんとは1年半前のデュオ以来。指の怪我のことは最近まで知らなかったが、このようなみんなの宝のような人には末永くお元気でご活躍いただきたいものだ。
 内橋・吉田のコンビネーションはこれまた練りに練ってあって、万華鏡のような目くるめく展開が素晴らしい。
 録音が上手くまとまるといいな。

2月2日
シカラムータ@抱瓶
 約1年ぶりのお座敷ライブ。店の告知に2月アタマにもかかわらず「今年もひな祭りライブはシカラムータ」というようなコピーがあったので、去年の書き下ろし(そして一度きりと思っていた)「BONBORI行進曲」の新バージョン「節分イブ編」に挑戦。絶対録音することもないだろうけど、こういう馬鹿なことも、もっともっと追求していきたいものだ。
 前回よりサウンド環境が若干改善されたこともあって、演奏もやりやすく、客席の反応もよく、さらに演奏が一体となりヒートアップする、という凝縮度マックスの時間を共にすることができた。最高!
 17HIPPIESの緊急ライブは、短期日のわりには順調に予約をいただいている。だが、まだ客席には余裕がある。あと1週間足らず、追い込みをかけねば。
 抱瓶から帰宅すると、17HIPPIESのメンバーからメールが来ていた。
ドイツの空港のチェックインで、ベースとベースアンプが持ち込み出来なかったという緊急報告。バンドの旅は、荷物が大変。急いでレンタルなどを当たらないと。僕らの9日はまだ時間があるが、4,5日の彼らの本公演(芝居でのシークレットゲスト)はもうすぐだ。

[link:26] 2006年02月03日(金) 04:28


2006年02月08日(水)エルトン・ディーン他界

エルトン・ディーンが亡くなったという。
「英国時間の7日深夜、急逝。享年60歳です。」 合掌。
http://en.wikipedia.org/wiki/Elton_Dean
エルトン・ディーンといえば、キース・ティペット・グループやソフト・マシーン(サクセロとか吹いてた)など、その名も輝かしい、多数のユニットで活躍した前衛ジャズロックにおけるサックス奏者の偉大なる先駆者。
過去形はかなしい。
最近は、昔のマイナーな盤も再発されているようだし、ちょっと聴き返してみよう。

ところで、この期におよんで、はじめて彼のディスコグラフィーやプロフィールを調べて、興味深い逸話を知った。
(ネット化以前から好きだった「こと・人」、意外と検索してなかったりするなあ・・・)
エルトンのファーストネームはエルトン・ジョンの芸名の元になっていたのだ。
何でも、エルトン・ディーンが若い頃に入っていたブルースバンド「Bluesology」のリーダーは、ノッポだったのでロング・ジョンとあだ名されたJohn William Baldryという有名なブルースマンなのですが、同じくそのバンドのキーボード奏者だったReg Dwightが、エルトン・ディーンとジョンの両方のファーストネームをくっつけて芸名にしたのが、エルトン・ジョンの始まりだとか。

[link:27] 2006年03月03日(金) 05:37


2006年03月18日(土)「ナミイと唄えば」映画評

★映画「ナミイと唄えば」(本橋成一・監督)★3月18日からポレポレ東中野で公開

 「三線片手に生きてきた―八重山おばあの歌と旅の物語」(映画チラシより)
 こう書くと、またぞろ「おばあ」をダシに「沖縄の文化や芸能を持ち上げて、暗くて重い現実に向かい合う感性を麻痺させる」(目取間俊「沖縄『戦後』ゼロ年」)ような陰謀の片棒担ぎか、とあらぬ疑いをかけられそうだが、こっちは「沖縄最後のお座敷芸者」ナミイおばあの、奇跡的ロードムービーだ。

 1921年、石垣に生まれ、6歳で母と死別、9歳で那覇のお座敷に身売りされ、きびしく歌・三線を仕込まれた。まさに人身売買ならびに児童労働である。あまりにつらくて、逃亡したり、子どもながらに死を考えたこともあるそうだが、不思議な体験に助けられ生き続けることになる。戦後も辛苦が続く。客の妻子ある博労に迫られ「2号さん」に。この男、小金でもあれば、すぐ巻き上げて使ってしまう。ナミイおばあが、方々の料亭やスナックで歌・三線でかせぎ、この「父ちゃん」を支え、子どもも育て、あげくのはて、病に倒れた本妻まで引き取って最期を見取っている。いわく、「悪人ほど捨てられない、だからアタシはだんなを絶対に捨てはしなかったさ」。まったく、親鸞や一遍が泣いて喜びそうなおばあである。
 文字通り、数奇の運命、辛酸を舐めてきた。しかし、ナミイおばあは、涙という涙を流し切ってきたのか、御歳85の今もって血気盛んなのだ。
 「五十、六十が蕾なら 七十、八十は花盛り」
 「私の人生これからと 希望の花を咲かせましょう」
 なんたって120歳まで歌い続けて周りの人々を楽しませることが彼女の希望なのだ。
 そう、歌とは、このおばあにとって、生きている証し、「生の喜び」そのものであるようだ。原作者の姜信子(映画でもおばあの「家来」として、あるいは踊る黒子として登場)いわく、「他の全てを振り捨てて”喜び”だけを求めて歌うその声の底には、果てしなく深い人間の業の、唸りにも似た音が渦巻いている」。そして、この「業」の渦巻きに、周囲は次々に巻き込まれていくのである。
 洗練された芸ではない。なんたって業の唸りだ。しかし、これがまた人の心のど真ん中に直撃する。琉球民謡だけでなく、童謡、軍歌、歌謡曲など、もうなんでもござれ、レパートリーは数知れず。人呼んで”人間ジュークボックス”だ。
 ところで、お座敷歌というものに触れておこう。琉球民謡にかぎらずヤマトでも、歴史的に民謡の世界は、お座敷芸者の歌を忌避してきた。純粋なる民謡というイデオロギーのもと、お座敷歌を排除することで、民謡のアイデンティティーの線引きをしてきた。ナミイおばあも、そんなお座敷の出身として、長らく不可視の存在だった。
 しかし、そんな下らないことはナミイおばあの知ったことではない。デイケアセンターや民謡酒場などで、おばあは大変な人気者。まさしく「無縁・公界(苦界)・楽」の世界である。

 映画では「カレシ」と称される謎の男性も、なかなか味のある存在だ。石垣の忘れられた民衆史や戦史を掘り起こしてきた、地元では知られた人物だが、ここでは匿名での登場だ。自身、歌の名手でもあり、おばあの歌のよき理解者として、また姜のアドバイザーとして、絶妙のトライアングルをなしている。
 おばあの一行が与那国や台湾を訪れたりするのは、戦時中に行き来した場所への再訪であるわけだが、たとえば台湾ではハンセン病施設「楽生治療院」や東部・花蓮の原住民(先住民)地域を訪問・交流している。これなどは、カレシ流のアドバイスによるもので、映画にも広がりを与えているし、何よりもマージナルな者同士の歌遊びが心を打つ。おばあは、そこで平然と軍歌を歌ったり(リクエストがあったからだが)、よりによって後遺症の残る人たちの前で「山田の案山子」を歌ったりと、こちらをハラハラドキドキさせるが、ナミイ・ビームの全くの無垢・イノセントさが、ここでも隔てのない心の交歓に力となっているようだ。

 最後に、付言しておこう。木馬亭公演のシーンで、バックの鮮やかな色の幕絵が目を引く。クレジットを見よ! そこには「貝原浩」の名が燦然と輝いている。 聞けば遺作だそうである。画伯の下絵に、皆で指示通りに塗って仕上げたのだそうだ。優しく沁みるような色遣いである。
 ※原作は「ナミイ! 八重山のおばあの歌物語」(姜信子・著、岩波書店)

[link:28] 2006年03月18日(土) 05:14


2006年04月11日(火)第52回全国チンドンコンクール@富山

優勝こそ逃がしたが、楽しくも濃い週末だった。
初日の予選は雨天でホール会場だったが、なんとトップ通過(長崎の河内屋さんと同点)という上々の滑り出し。
翌日も、準々決勝は、チンドン通信社の実力派・花田君チームに快勝、ベスト4に進むも、準決勝はミス連発で無念の敗退。
でも、最初のステージがバッチリだったし、3度も演技ができて疲れたけど楽しい大会だった。
http://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/cin/prize.html
予選通過は30組のうち8組で、本選は準々決勝、準決勝、決勝とトーナメント。しかも宣伝するクライアントも変わるので、準備がとてもハード。優勝するには4つのネタをつくらなければならない苛酷なコンテスト。
2年前までは一回切りの演技で審査するやり方だったのが、50回を機に、マンネリ打破ということか、大々的に方式が変わった。
しかし、東京組は本選通過の段階で、なんと我々・東京チンドン倶楽部のみ。同点組の選別でクジ引きとなったので、クジ運もあるが、逆に大阪のチンドン通信社は5組も残り、対照的な展開。
東京はもともと個人商店ばかりで、組織性に欠け、かつては上位を回しあってきたベテラン親方には、もはやハードルが高くなりすぎ、中堅・若手も勝つことを度外視したような奔放な芸風がある。それでも、さすがに今回は、それぞれ心中期すものがあったのではないだろうか。
いずれにせよ、面白くなった点だけではなく、逆に疑問の多い部分と、いろいろ検討の余地がありそう。
とはいえ、最後の大通り大パレードは、爽快。
何万ものお客さんに楽しんでもらいながら、吹きまくり驀進するなんて最高!

[link:29] 2006年04月11日(火) 05:18

k-diary script by Office K.

※このページの更新情報はlastmod.txtより取得できます。