大熊ワタル気まぐれ日記


2007年02月02日(金)「とてもお利口とは思えない・・・オリコン個人提訴事件の問題点」

●当世音楽解体新書 (planB通信07年2月号より)

「とてもお利口とは思えない・・・オリコン個人提訴事件の問題点」

 先月号でも少し触れたが、音楽のヒットチャートで知られるオリコンが、批判的なジャーナリストに対し高額訴訟を起こしたという問題について検討してみよう。
 あらためて経緯を整理すると、昨年末オリコンは、ジャーナリスト烏賀陽(うがや)弘道氏(※1)が、雑誌「サイゾー」2006年4月号の記事にオリコンチャートの信憑性を疑問視するコメントを提供したことに対し、事実無根の中傷であるとして、雑誌編集部ではなく烏賀陽氏個人に対し、5000万円の損害賠償訴訟を起こした。

 記事中のコメントで烏賀陽氏は、オリコンのヒットチャートについて「調査方法をほとんど明らかにしていない」「予約枚数もカウントに入れている」などと指摘。これに対しオリコンは、「1968年のランキング開始以来調査方法を明らかにしてきており、予約枚数もカウントに入れたことはない」などと反論。また、サイゾー誌の記事だけでなく、烏賀陽氏が以前から、「長年に亘り、明らかな事実誤認に基づき、弊社のランキングの信用性が低いかのごとき発言を続け」、「ジャーナリズムの名の下に、基本的な事実確認も行わず、長年の努力によって蓄積された信用・名誉が傷つけ、損なわれることを看過することはできないことからやむを得ず提訴に及んだ」としている。
 これに対し、烏賀陽氏は、指摘した問題に関しては、業界関係者の間では広く共有されている認識であること、またオリコンも出版社であり、言論に対しては言論でたたかうのが筋で、「意見が違うものは高額の恫喝訴訟で黙らせる、というのは民事司法を使った暴力」であり「言論・表現の自由という基本的人権」の侵害であると反論。

 この件に関し、音楽関係ライターらを中心にネット上では、オリコンの対応を疑問視する多くの声があがっている。とくに、音楽ライター・津田大介氏のブログ「音楽配信メモ」は、オリコン批判ありきではない、バランスを意識したスタンスながら、充実した分析、取材で参考になる(※2)。また、訴訟準備で経済的な負担が大きい烏賀陽氏を支援するカンパ募金サイトも出来た(※3)。一方、既成のマスメディアの反応は鈍く、ごく一部が短信を流した程度。その多くは、ろくに取材もせず、もっぱらオリコンの声明を引き写したようなものだった。(HP「うがやジャーナル」参照)

オリコン側は、烏賀陽氏だけ訴えた理由を、「氏自身が責任をもつ記事だと明言している」ことから、雑誌側への責任は問わなかったのだという。しかし、烏賀陽氏のコメントは記事中のごく一部で、記事の基本的論調は、あくまで編集部の責任にあることは明白だ。オリコンの論理は、強引と言うしかない。
 また、なぜ5000万という高額の損害請求額なのか。オリコン側は、「賠償金が欲しいのではなく、これ以上の事実誤認の情報が流れないように抑制力としたい」という。また当初、烏賀陽氏が謝罪して訂正すれば訴訟を取り下げてもよい、という社長のコメントも出していた。オリコンは、烏賀陽氏があっさり引き下がると踏んでいたかもしれない。

 オリコンの不可解なこじつけは、それだけではない。烏賀陽氏が、「長年にわたり他のメディアでも」敵対してきたというが、今回の記事以外では、03年のAERA誌での記事ぐらいしか前例がないという。しかも、烏賀陽氏の指摘は、彼独自のものというより、業界関係者に広く共有されている認識なのであり、結局、これは、目障りな批判者を、札束で引っ叩き、潰そうという暴力以外の何なのだろう。
具体的な損害等について認定を争うのではなく、訴えること自体が目的ということになれば、禁じ手である訴訟権の濫用として、オリコンの自縄自縛(自爆?)になるだろうという見方もある。しかし、このような企業から個人に対する「戦略的訴訟」が、国内外で増えているそうだ。この「訴訟テロ」を放置すると、どういうことになるのか。たとえばIT情報アナリスト・横山哲也氏は、以下のように警鐘を鳴らす。
 「批判に対して,反論し,謝罪と訂正を要求するのが言論の常識とすれば,いきなり訴訟に持ち込むのはまさに暴力であり、言論の否定である。このような行為が許されるのであれば,大企業への批判は誰もできなくなる。ジャーナリズムの危機である。にもかかわらず,既存メディアの動きは極めて鈍い。訴訟の行方も気になるが,マスコミの鈍感さはもっと気になる。」
 たしかに、他人事ではないはずなのに、ジャーナリズム全体の問題だ、というような認識が、ほとんど見当たらない。本当に危険なのは、そこなのかもしれない。(2月13日に、東京地裁で第1回口頭弁論が開催される。)

 (1)フリージャーナリスト烏賀陽弘道氏は、元AERA記者で、『J-POPとは何か』などの著書がある。HP「うがやじゃーなる」http://ugaya.com/ には、サイゾー記事・本文はじめ、メディア各社の記事・取材のあり方についての一覧など、興味深い内容がアップされている。
(2)津田氏が取材した複数の業界関係者のコメントは、実に興味深い。それらは、オリコンチャートを信頼するにせよ、しないにせよ、チャートは(限定的にせよ)操作可能らしいと示唆している。ここから


(3)「オリコン個人提訴事件を憂慮し、烏賀陽弘道氏を支援するカンパ活動 」
    http://d.hatena.ne.jp/oricon-ugaya/20070124/1169640998




[link:35] 2007年03月02日(金) 15:18


2007年03月02日(金)「沈黙するTOKYOと、乱反射する音遊び@辺野古」

当世音楽解体新書 (planB通信07年3月号を手直ししたものです。)
★「沈黙するTOKYOと、乱反射する音遊び@辺野古」

 先月お伝えした、オリコン個人提訴事件の続報から始めてみよう。ヒットチャートで有名なオリコンが、雑誌に批判的なコメントが載ったフリージャーナリスト烏賀陽(うがや)弘道氏に対し、5000万を請求したという不条理な訴訟だ。
 2月13日、東京地裁で一回口頭弁論が開かれたが、オリコン側が19人もの弁護士をかき集めながら、弁論の数日前に起こされた烏賀陽氏からの反訴にまったく対応できていない様子(早くも引き伸ばし作戦で兵糧攻めを狙っているのかもしれないが)。それに対し、烏賀陽氏の支援の輪は、2月10日にフランスの世界的NGO「国境なき記者団」が、烏賀陽支持とオリコン社長に訴訟を断念するよう勧告、16日には、同じくフランス有力紙「リベラシオン」にも1頁を埋める紹介記事が載った。
 また19日には、国内でも出版労連(出版社の労働組合の連合体)が、烏賀陽氏への「不当な訴訟を取り下げ、謝罪することをオリコンに強く求める」声明を発表するなど、烏賀陽支持は世界的な広がりを見せている。
 このように書くと、オリコンは、皮肉にも烏賀陽氏の名声に拍車を掛けているだけのように見えるかもしれない。
 しかし、このような支援の声の一方、対照的なのは、国内マスコミがほとんどと言ってよいほど沈黙の構えを見せていることだ。新聞はまだしも、TV関係からは、烏賀陽氏に、一本の問い合わせもないそうだ。すでにお気づきかもしれないが、マスメディアは、そのほとんどが、オリコンとの取引先であり、オリコンからヒットチャートのデータ提供を受けている。あまつさえ、オリコン側の弁護士が「こんな訴訟、どこも記事にしませんよ」と自信ありげに放言しているそうだ。
 もしかすると、オリコンは、まだ烏賀陽氏サイドを甘く見ているのかもしれない。しかし、企業の恫喝的訴訟に、しばしば見られる傾向だが、彼らの目的は、必ずしも勝訴ではなく、相手を疲弊させ沈黙させることだ。
 そう、少なくともマスメディアは、すでにいろいろなことに対して沈黙している。良心的なマスコミ関係者も少なくないはずだが、反応を起こさないままならば、「良心的に眠っている」(原寿雄・元共同通信主幹)と言われても仕方がない。
 もっとも、ここでしたり顔でマスコミ批判をしたいわけではない。そんなヒマがあれば、もっと面白いことをしよう。そう、マスコミが語らない領域にこそ、真にリアルなこと、面白いことがある。

 そんな思いを強くしたのが、たとえば2月24日、25日に沖縄・辺野古で開催されたピース・ミュージック・フェスタだった。
ご存知のように、すでに米軍キャンプシュワブが存在する辺野古では、さらに普天間基地の代替施設の受け入れの是非を巡って、地元を二分する葛藤に苛まれてきた。当初の沖合いの案を、草の根の反対運動で防いできたと思いきや、米軍再編のあおりで、唐突にV字滑走路という「日米の合意」が発表された。その後の県知事選は、反対派の候補が敗れたが、賛成にせよ、反対にせよ、苦く重い葛藤を地元の人々は負わされている。押し付けているのは、言うまでもなく、日米政府と、その国民たちだ。
 その辺野古で、既成の政治的組織などの、しがらみをさけつつ、音楽の力だけで、基地をなくし、辺野古の自然を守ろうという行動が、ピースミュージックフェスタだ。
 すでに、去年、レゲエ好きな人々によって第一回目が、土砂降りにも関わらず700人の結集で成功裡に開催されていたが、今年、さらに、沖縄に移住して3年目のソウルフラワーユニオン(モノノケサミット)伊丹英子と、沖縄新世代の注目株・知花竜海(DUTY FREE SHOPP.)の参画で、ジャンル不問で、2日間のイベントに拡大開催されたのだ。
 知花ら若手から、新良幸人、オキナワン・サルサの雄・カチンバ1551などの実力派、さらに超ベテランの大城美佐子、照屋政雄など、豪華な沖縄勢、そして、ヤマトから、ソウルフラワーのほか、渋さ知らズ、梅津和時、寿など、はたまたアイルランドの大立者ドーナル・ラニーが駆けつけるなど、出演者を一覧するだけでも壮観だった。それぞれが、ひと言では言い尽くせない、魂のこもった音遊びを繰り広げて、実に圧巻だった。
 その音の種の一粒一粒は、辺野古の白い浜に放射され、片や、米軍の鉄条網にぶつかって乱反射しながら、延べ千数百人の参加者の脳裡に深く刻み込まれ、さらに芽吹いていくことだろう。 

 ここで、沖縄本島・最北端の辺戸岬に立てられた、ある石碑のことを思い出さずにはおれない。与論島をはるかに望む北東方向、つまり本土に向いて立つ、その「祖国復帰闘争碑」は、「全国のそして全世界の友人へ贈る」として、以下のような高らかな調子で始まる。「吹き渡る風の音に耳を傾けよ。権力に抗し復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だ。打ち寄せる波濤の響きを聞け。戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ」
 しかし、碑文は、苦く重い調子に一転する。72年5月の「沖縄返還」が、「日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用され」「県民の平和への願いは叶えられ」なかったからだ。「しかるが故にこの碑は、喜びを表明するためにあるのでもなく、ましてや勝利を記念するためにあるのでもない。」さらに、石碑はこう結ばれている。「生きとし生けるものが自然の攝理の下に生きながらえ得るために警鐘を鳴らさん」
 フェスティバル翌日、撤収の進む浜辺では、「吹き渡る風」と、「打ち寄せる波」が、寂寞と響き続け、時折、戦闘機の爆音が切り込んでくる。そんな現実に戻った風景のなか、石碑の断唱が、聞こえてきたような気がしたのだった。
 



[link:36] 2007年03月14日(水) 13:09


2007年05月09日(水)★「地中海音楽の磁場・ナポリの音楽シーンに注目!」

当世音楽解体新書(planB通信 07年5月号)より
 
 古代ギリシャ文明も、本来地中海というアフリカと向き合った、フェニキア、エジプトなどの複数的文明だったはずなのに、ヨーロッパ中心の視点で、書き換えられてきたのではないか…。そのような指摘が、話題となっているようだ。
(マーティン・バナール『黒いアテナ/古典文明のアフロ・アジア的ルーツ』第一巻「古代ギリシアの捏造」)
 そう、ヨーロッパとアフリカの間に横たわる地中海は、かつて詩人ランボーも歌ったように、さまざまな原色を、そこに見出すことが出来る。

 そして、いよいよ今月末、その地中海に突き出した南イタリアから、ナポリの誇る鬼才ダニエレ・セーペがやって来る!(25日「地中海音楽の夕べ」@イタリア文化会館)

 といっても、日本では、まだ知る人ぞ知る存在だろうが、これは事件といってよいだろう。

 1960年、ナポリ生まれ。サックス奏者・作曲家。南イタリアのルーツ音楽(タランテッラ、タムリアータなど独自の民俗音楽で知られる)をバックボーンとしながら、ロック、ジャズ、レゲエなどが、自由自在にチャンポンされた、ポップで猥雑なカーニヴァル的音楽世界。セーペの音楽の特徴は、ただ楽しげなだけでなく、「何でもあり」の雑食的世界でありながら、挑発、批評性、ユーモア、皮肉などが必ず中心にある点だ。ビクトル・ハラや、ブレヒト・ソングなどが参照されたり、それらを換骨奪胎したような対抗文化的視点が、強烈なスパイスを効かせている。90年頃より、ほぼ毎年のように力作を発表、その怪物的な創作力も特筆ものだが、とくに98年の「限界労働(lavorare stanca)」、2003年の「アニメ・カンディード(率直な魂)」などは、比類のない傑作トータルアルバムで必聴だ。

 今回の来日は、クインテット編成で、アルバムでの批評性、トータル性といった点がどこまで表現されるのか、未知数だが、ともかく、セーペの実演に触れることが出来るという、実に楽しみな事件だ。

 そこで、この際、セーペ来日に歓迎の意を表して、徹底的にセーペとナポリ周辺の音楽を聴き倒そう!そして、セーペ(たち)を生んだ南イタリアの音楽シーンを調べてみよう!そんな企画を立ててみた。

 第一弾は、5月13日(日)、「『音の力』プレゼンツ闘走的音楽案内vol.1  Cutup労働歌!?」と称して、新宿百人町NAKED LOFTで行われるDJトーク・イベントのひとコマで、まずは一席(第二部 レイバーソングDJ「移民、多文化、周縁」)。 この日は、小一時間という持ち時間なので、セーペとその周辺の音源、そして南イタリアのシーンの立ち位置をめぐって、まずは軽くジャブ。ゲストは、比較音楽学の若き研究者・阿部万里江さんで、後述のチャールズ・フェリス氏のお仲間(ともにカリフォルニア大学バークレー校・音楽文化学)。

 そして第二弾は、26日(土)、planBにて、ナポリ・シーンの特集。題して「ダニエレ・セーペ来日記念 DJ&トーク 地中海音楽の断層・南イタリア音楽シーンの磁場を聴く」
 報告をお願いするチャールズ・フェリス氏は、ダニエレとその周辺の音楽事情を、長期リサーチ中の若き研究者(自身ミュージシャンでもある)。ちょうどダニエレと共に来日するという好機をとらえ、ナポリ音楽シーンの最前線を紹介してもらう。
 セーペだけでなく、彼の僚友で、北アフリカからの移民でもある音楽仲間や、セーペが10代後半に音楽活動を始めるきっかけとなった、労働者音楽グループ「e zezi」についてなど、ナポリ周辺の豊穣な音楽的磁場を、多角的、立体的に、聴き、眺め、そして語り合おうという魂胆だ。

 イタリアの南北問題、そして、ヨーロッパとアフリカという大きな南北問題という歴史的文脈、そして最近のグローバル経済・政治との関連などが、ナポリタン音楽料理の、さしあたりの入口となるだろう。「われわれ」自身の音楽事情を、あらためて見直す上でも、間違いなく刺激的な視点となるはずだ。
 すくなくとも、チャールズの話は、本邦初公開! ぴちぴちのとれとれだよ〜。さあさあ、いらはい、いらはい!

 さらに、夜の部・映画「山谷(ヤマ)〜やられたらやりかえせ」上映会ともリンクし、上映後に、ナポリ・東京、双方の状況を背景にした、刺激的なクロストークが決定!!(ゲスト・平井玄) 乞うご期待!

[link:37] 2007年05月09日(水) 04:07


2007年07月04日(水)検証「地中海音楽の断層・南イタリア音楽シーンの磁場を聴く」

planB通信7月号
検証「地中海音楽の断層・南イタリア音楽シーンの磁場を聴く」
〜となりの芝生から見えてくるモノ

 5月末に予定されていたナポリの鬼才、ダニエレ・セーペ来日公演は、直前になり急遽キャンセルになってしまった(家族の健康問題)が、5月26日planBでの「ダニエレ・セーペ来日記念 DJ&トーク 地中海音楽の断層・南イタリア音楽シーンの磁場を聴く」は、期待をさらに上回る面白さ、充実した内容だった。
 講師を務めてくれたチャールズ・フェリスをあらためて紹介しておくと、1971年生まれでカリフォルニア大学バークレー校音楽文化学博士課程。現在ミュージシャン/エスノミュージコロジストとしてナポリ在住。トランペット奏者として現地のミュージシャンと音楽活動をしながら、ナポリの音楽シーンを通して移民やイタリア南北問題等、様々な社会問題を考察するフィールドワークに取り組んでいる。

 話は、まずナポリ音楽シーンの顔役、ダニエレの新譜の紹介から始まった。2003年の傑作「アニメ・カンディード(率直な魂)」のあと、近作は、やや落ち込み傾向を感じさせたが、昨年リリースの新作「SUONARNE 1 X EDUCARNE 100」は、これまた、挑発的な問題作で、ダニエレ健在を強くアピールするものだ。名義は前作に引き続き、ドイツ語で「ダニエレ・セペと赤いジャズ分派」。このいかにも意味深なネーミングは、やはりというか、70年代のドイツの新左翼党派名のパロディーだそうだ。前作は、ボーカルのかなりを、チュニジア系移民のマルツークがアラブ語で務め、(アメリカ経由の)ジャズとアラブ歌謡の合体というコンセプトが特徴だったが、総じて「まったり」感が強く、「凪」というイメージだった。が、新作では、六八年、あるいはその後の七十年代(アウトノミア)の運動や「鉛の時代」(テロと弾圧の暗澹とした応酬)など、近い過去の出来事を振り返りつつ、皮肉や毒気たっぷりにコラージュした問題作で、音楽的にも超ハイテンション。あらためてダニエレの怪物的パワフルさに持っていかれた。

 ここには、東京からの理解を誘う「相似的」なものと、そうでないものが同居している。まず、ダニエレの左翼性。それは自身の選択・性格があるにしても、背景、つまり祖父や父が小作農として、南イタリア特有の保守的な土地制度で苦労した、というプロレタリア的出自があり、さらにそれは、イタリアの、二人に一人はカトリック、もう一人は共産主義者、と言われてきた国民性?の一端だとも言えるだろう。
 また、イタリアの70年代は、一般的なイメージは、「赤い旅団」に代表される暴力主義的なテロと、権力の弾圧に暗く彩られた「鉛の時代」だろうが、一方で、「アウトノミア(自律)」という、新左翼自体を相対化するようなオルタナティブな運動の存在も忘れてはならないだろう。そこからは、スクォッタリング(占拠運動)や、労働の拒否(相対化)、マイノリティーの解放など、現在に続く自在な運動が花開いたのだ。(ちなみに、アウトノミアの代表的知識人と目されたのが、「帝国」や「マルティチュード」のアントニオ・ネグリだ。)

 さて、そのセーペが10代後半に音楽活動を始めるきっかけとなったのが、労働者音楽グループ「e zezi」(エゼジ)だ。これはナポリ近郊のポミリアーノ・ダルコという、アルファロメオの大工場がある産業都市の、労働者や失業者、はたまた農夫や大学教授とか、世代としては68年世代の人達が始めた音楽・演劇グループで、工場のできた74年位からもう30年位ずっと活動が続いている。
 労働者音楽集団、というと、なにやら辛気臭い、退屈なものを連想させるかもしれないが、さにあらず!(まあ、説教臭さは、あるかもしれないが…) これがまたビビッドな演奏で、どこのフェスティバルに出ても平気で受けそうな勢いだ。ナポリ周辺の、独自の民謡などを大切にしながら、歌詞は、政治批判や風刺などを込めて、バンバン替え歌をしまくる。演奏の場も、街頭集会や、地域の祭りなど、路上演奏、移動演奏はお手の物。
チャールズが用意してくれた映像では、エゼジ結成当初のステージで、まだ少年のダニエレが笛を吹いている激レアなシーンも! また、エゼジのパフォーマンスにおける、ビジュアルイメージというかイメージのトータル性、たとえば、伝統的な街頭劇のフォーマットを借りながら観衆を巻き込んでいくようすなど、韓国のマダン劇などとも共通性を感じられる興味深いものだった。

 こうして、断片的であれ、映像で見てみると、ダニエレの音楽性の、社会性や、カーニバル的・祝祭的雰囲気の、そのコアな部分はエゼジと共有ないし継承していることが分る。また、エゼジ自体も、自分らのペースで、脈々と30年以上、延べ百数十人にわたって、地道に活動を続けていることを確認できた。
 タランテッラ、タムリアータ、といった、ある程度、大文字の地域の伝承音楽が、しっかり存在する傍ら、労働や生活の現場における、地道なオルタナティブの活動も、集団的に継承されている。そんな環境から、現状をつねに挑発し、スパークするセーペの音楽。
 とはいえ、もちろん、一般多数の人々は、もっとフツーのポピュラー音楽、文化を享受している。そこで、カギになるモダニズム、現代化で避けて通れないのは、やはりというか、アメリカ文化の影響だ。いうまでもなく、イタリアも第二次大戦の敗戦国として、戦後しばらく、アメリカをはじめとする連合国の占領にあった。ここで否応なくアメリカ文化の影響が登場する。チャールズが紹介してくれた、エレキやドラムなど、アメリカの影響を受けながら、歌謡はナポリ的という、50年代のナポリポップス。そこには、どこか、日本の歌謡曲や演歌、はたまた、初期の沖縄ポップスとも共通するような、ナツカシさ、既視感がある。そして、エゼジやダニエレら(だけではないだろうが)に再発見されるまで、タランテッラなどの伝統性と、現代性を架橋する要素として、戦後の典型的ポップスの流れが、支配的に存在した、と言えるのだろう。

 実は、ナポリにも、まだ大規模な米軍基地がある。ただ、日本(基地の大半は沖縄だが)と違うのは、反米意識が常に強烈で、米兵は、うっかり街中に入って来れないくらいだし、イラク戦以降、大規模な反米デモが繰り返されたという。
 その違いは、もちろん、端的に親米政権のスタンスの差であり、アジア地域の政治的緊張という環境があるにせよ、あらためて日本の戦後処理の問題の根の深さを感じざるをえない。
 不安と希望。暗雲と、そして? 似ているが違う風景。そんな東京で、セーペの新譜を聴きながら、いっとき思いにふけるのも悪く無さそうだ。



[link:38] 2007年07月05日(木) 04:10


2007年10月13日(土)ビルマの軍艦マーチ

planB通信10月号・当世音楽解体新書より
「ビルマの軍艦マーチ」
 軍政の続くビルマ(ミャンマー)で、連日、市民の抗議行動が続いている。日本人ジャーナリスト・長井健司さんが取材中に射殺されたことで日本でも大きく報道された。長井さんが倒れたまま、カメラを逃げ惑う民衆に向け続けた最後の姿に、衝撃と感銘を受けた人も多いだろう。
 抗議行動は、軍の冷酷で徹底的な弾圧により押さえ込まれつつあるようだが、それはアウンサンスーチーさんたち国民民主連盟(NLD)の民主化運動が盛り上がった1988年以来の激しい動きだった。日本にも、ビルマから逃れてきた政治的難民も少なくない。
この機会に、あらためてビルマの軍事政権と、民主化、そして、それらと日本の関係を考えてみよう。
 まず、ミャンマーという呼称について。これは、現在の軍事政権が、89年に、それまでのビルマから、ミャンマーに正式名称を変更したわけだが、この二つの単語の指示する意味の差異は、たんに口語的表現か、文語的表現かといった違いにすぎないようだ。しかし、その正統性に大きな疑問のある軍事政権が決定した名称変更ということで、「ミャンマー」と「ビルマ」のどちらを取るか、軍事政権との関係性・スタンスが現れてくる。
 欧米では、軍政の人権問題などを重視して、外交的にも報道的にも、ビルマの呼称(すくなくとも併称)が一般的だが、経済・軍事的に利害関係のある中国やロシアは、ミャンマー側一辺倒だし、日本も、ODAなどで経済的関係があり、すぐに軍事政権を認めたミャンマー派だ。
 ここでビルマの歴史を少し振り返ってみると、まず19世紀後半、隣接する植民地インドの宗主国イギリスとの抗争に敗れ、ビルマはイギリス植民地となった(1885)。第一次世界大戦の頃から独立運動が盛んになったが、30年代末に、反英運動の若きリーダーとして頭角を現したのがアウンサンであり、アウンサンスーチーは、その長女にあたる。
 第二次世界大戦中、アウンサンたちの反英運動に目を付けたのが、日本軍の特務機関である南機関だった。当時ビルマは、連合国から中国への補給路となっていたので、日本軍にとってビルマの若者たちの反英運動は大いに利用価値のあるものだったのだ。南機関は、アウンサンたちを国外脱出させ、日本にかくまったり、同志を募らせ海南島などで軍事訓練を受けさせるなど、さまざまな支援をした。そして41年、アウンサンたちは南機関の肝いりで独立義勇軍を組織、日本軍と共闘して42年には英印軍を敗走させた。
 しかし、日本軍中枢は、アウンサンたちの独立を反故にし、独立運動に深入りした南機関は軍中枢と齟齬をきたし解散となる。日本軍への不信(略奪・強制労働などもあった)を経て、日本軍の敗色が濃くなると、アウンサンたちは、イギリスなどの連合軍に寝返り、45年、抗日闘争に勝利した。対日戦略のため、アウンサンたちを支援したイギリスもまた、独立の約束を反故にして、ビルマは再びイギリス植民地となったが、独立運動を止める事はできなかった。しかし、アウンサンは、48年の独立直前に政敵に暗殺され、待望の日を見ることはなかった。
 このように、ビルマ独立と、それを担ったビルマ国軍は、旧日本軍と浅からぬ関係があり、そのため、戦後も国軍リーダーたちは親日派であり、あるいは、その振る舞いによって、対日政策で、利益を誘導してきたとも言える。しかし、現在でもミャンマー国軍のマーチが、まず行進曲「軍艦」で始まるという例からも、「親日」が方便だけでなく、軍政のDNAに、旧日本軍の遺伝子が組み込まれていることが分かる。
 筆者は、軍艦行進曲の実例は未聴だが、ミャンマー国軍による、別な日本の軍楽をTVで聞いて腰を抜かしそうになったことがある。それは、アウンサンスーチーさんたちの民主化運動や軍政によるクーデターなどを報じた、NHKの報道番組だったが、そこで聞こえてきたのは、筆者が、チンドン屋で聞き覚えた通称「ゴタイテン(御大典)マーチ」にほかならなかった。今、試みにネット検索してみても、そのようなタイトルの曲は見当たらないが、おそらくは昭和天皇の即位にさいして作られた行進曲が、後々、チンドン屋のレパートリーに僅かに生き残ったのだろう。
 チンドン楽士として、その曲を自分自身、何度か演奏したことがあったので、TVから聞こえてきたミャンマー国軍の演奏には、歴史にアタマを殴られたような衝撃を覚えたものだ。
 さて、日本人は経済的諸関係などにおいて、ミャンマー軍政に直接・間接に加担してきたともいえる。ビルマの民衆の叫びは他人事といえるだろうか?

[link:39] 2007年10月13日(土) 04:56

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