大熊ワタル気まぐれ日記


2009年12月04日(金)あるクラリネット吹きの週末

 久々のオールナイトとなる、ヨコハマ国際映像祭のフィナーレ前夜祭コンサートから、日曜の夜のとあるライブまで、二晩で3本の演奏だった。
 ジンタらムータの出番は2時頃だったが、トリの渋さにも誘われて、5時終演予定が少々押したのか、会場を出たのは6時過ぎだった。
(日の出前の薄暗い港の眺めが渋かった! …がのんびり眺める暇もなく… そう言えば、ライブの後というのも意外と忙しくて、何かとままならぬことが多い。来てくれた知人などが待ってくれていても、楽器の撤収などで、なかなか相手ができなかったりする。ゆっくり打ち上げができるときは至福であるが、いつもそうとは行かないものだ。)
 ジンタらムータの演奏は、まずまずだったと思う。夜を意識した選曲はセミアコ編成にぴったりだったと我ながら満足。
 渋さのほうは、はじめ不破さんの気ままな仕切りにドキドキしたが最後は、眠くなっているはずの観客を見事に大饗宴に持っていき、さすがでした。
(大団円の模様がイルコモンズさんのブログにアップされていた)  
 http://illcomm.exblog.jp/10505519/
(みわぞう、まだ絶好調…)
 ただ、さすがにオールナイトで2ステージは体力を消耗したかも。小生は後に残るほどの疲れではないが、渋さの後半、だんだん自分の音が聞こえなくなって焦った。
 みわぞうなど、張り切りすぎたのか、肩などの筋肉痛で完璧にダウンし、復帰に数日かかりそうな雲行きだ。背負ってるだけでも疲れそうなチンドンを、渋さの音量に対抗して爆打ちし続けたのだから無理もない。もし時計をもとに戻せるなら、終演後、野球のピッチャーのように肩を冷やしてクールダウンさせればよかったのかもしれない。
 さて、話を戻すと、会場はシアター・ステージと隣接したラボ・ステージとの2ステージを交互に使用するかたちで進行した。シアターは大きな新港ピアの会場内にマトリョーシカ状に作られた、それなりの大きさの映画館というか映写スペース。道理で、幅広の割に客席の奥行きが浅く少々妙な感じ。内装だけで外装はない文字通りの直方体なので奇妙な巨大オブジェのようでもある(たぶんこの映像祭だけのために作られたのだろう)。一応壁で覆われていて外に音はあまり漏れない。…ので、ジンタらのほか、植村君のトリオや渋さなど音量の出るバンドはこちらで演奏。
 一方ラボ会場は、一面に美術家たちの展示ブースが展開された広い部屋の一角(港を背にしたガラス壁)で、大音量には向かないが、奇妙なラウンジといった面白い雰囲気だった。
 まあ、コンサートとしての雰囲気は面白げではあったのだが、何かすっきりしない感が残る。
 そもそも、この映像祭は、動員不足などで何やら揉めたというか内紛があったように聞く。それはそれとしても、このファイナル前夜祭のオールナイト・ライブが、決まったのは結構最近のことらしい。出演オファーがきたのも3週間前くらいのこと。出展している知り合いの美術家も、直前まで知らなかったと驚いていた。
 盛り上がらないままではマズイので、最後に集客してお茶を濁そう的な空気がなきにしもあらず。もちろん、このライブがきっかけで200人ほどが会場を訪れたのだから、駆け込み企画でも意義はあっただろう。
 しかし(直接声をかけてくれたコーディネータ―氏には感謝したいが)映像祭自体からのフィードバックというか反応も(ありがとうでも異論でも何でもいいのだが)何も感じられなかった。
 端的にギャラも安かった。人のことは何でも言える、とはいえ、一応専門家である大人を夜中に集めておいて、一人ウン千円にしかならないのは、ちょっとどうなんだろう。金額だけを言うなら、その条件でも受けたのだから、文句は言えないかもしれない。しかし、何か別なモノ、モノでなくてもよい。モノつくり同士ならではのフィードバックが何かあったなら、もうちょっと違ったと思うのだが。
 実際、渋さのフィナーレで、不破さんが、客席に向かって、そこにいるはずの主催関係者に、アンコールの時間があるかどうか聞いたのだが、驚いたことに、誰一人として関係者はそこにいなかったのだ。自らのイベントのフィナーレであるにもかかわらず。
 帰路、さわやかなはずの朝日を浴びながら、なんとも言えないモヤモヤを噛み殺しながらの運転となった。

 + + + + + + + + +
 
 日曜は都内某所のレストランにて、引き続きジンタらムータ。作家・瀬川深氏の結婚パーティーでのライブだ。
 会場は倉庫を改造したスペイン風レストラン。フラメンコ用の簡易な音響機材はあるのだが、スペースが割合広いのと、ジンタらムータとしては大所帯(チンドン+ホーン隊にギター、ヴァイオリン入りの7名)なので、若干の機材をレンタルして、システムからセットアップすることになった。
 エンジニアに頼んだのは、ソウル・フラワー・ユニオンから最近卒業、ソロ活動になったミュージシャンでもある河村博司君。ギターや歌も素晴らしいのだけれど、現場で鍛えた録音やライブのエンジニアとしての腕も確かなモノがあり、頼りにしている。
 さて、作家としてのデビュー作『チューバはうたう』で、シカラムータとファンファーレチョカリーアをモチーフにした話を書かれたという縁がある、その瀬川氏の宴席での演奏。詰めかけたご家族や友人たちの醸しだす、あたたかい空気に背中を押されたかのように、短い時間ではあるがロケットスタート&ハイテンションの演奏となった。
 クライアントのニーズと、こちらの演奏が合致しているとはいえ、気持ちと気持ちがシンクロしたときの何ともいえない高揚感。
 瀬川氏や可憐なパートナーさんの人柄もあるだろう。ご家族やご友人たちも「ならでは」の温かみある人々だった。
 というわけで、一転して、すっかり浄化され感謝にみちた日曜となった。

[link:49] 2009年12月04日(金) 06:25


2009年10月27日(火)DRIVE TO 2010

 昨日は嵐のなか、シカラムータでDRIVE TO 2010@新宿ロフトに出演しました。
 激しい雨で、動員は厳しいだろうと諦め気味でしたが、サブステージ?の映画の動員もあってか、天気のわりには満員に見えました。
 すでに他でも書いてますが、19歳の夏に遭遇したDRIVE TO 80 にはとても刺激をもらいました。
 全部見たわけではないけど、当時はドラム&ヴォーカルだったヒゴヒロシさんのミラーズがカッコよかったことや、フリクション、リザードが満員総立ちでほとんど見えなかったこと、ゼルダのボーカルの子(当時のサヨコちゃん)がやけに若そうだなと思ってたら、まだ中学生らしいと聞いてびっくりしたり、NONBANDのNONがまだ一人弾き語りで飛び入りし、これまた驚かされたり、などなどいろんなシーンを覚えてます。
 ともかく、こんなにパンク・ニューウェーブバンドをまとめて見られるイベントは前代未聞だった。大きな刺激をもらって、その後すぐに絶対零度でのバンド活動が始まって行くわけです。
 そのDRIVE TO 80の仕掛け人の地引雄一さんや清水さんには、それこそ30年ぶりくらいの再会でした。今回の担当プロデュースの石戸君(いぬん堂)も含め、呼んでくれてありがとう!
 企画は大変だろうけど、時々こういうイベントあるべきだと再認識。80年代ってなにが面白かったかって、こういう出会いや発見のあるミクスチャ―的なライブが普通にあったんだよな。法政の学館もあったし。

 さて、昨日のステージに話を戻しましょう。カムラさんの歌は、昔からファンでしたが、最近の歌は、なにかただならぬ雰囲気に満ちていて心打たれます。2曲ゲストで参加させてもらいましたが、またじっくり参加したいと思いました。ヒゴさんのベースや、ヴィヴラフォンで高良さんが居たり、お得感のある編成。
 サヨコオトナラはこの間の日比谷で会ったばかりですが、ハコの中ではまた一味違う鳴りの底力を感じました。OTOは本当にポジティブで嫌味の無い人。彼が楽屋にいると、ずっと面白い話がつきない。
 川田良さんのバンドはビシビシのソウル・ファンクバンドでした。フールズのルーズな感じも大好きなのですが、きのうのPANTSというバンドは、若いメンバーを従えて、ビシビシ拍車を入れまくるという感じのハイテンションな演奏で、おかげでシカラムータのほうも気合入りました!
 とにかく久々楽しいイベントだった! 感謝!

[link:48] 2009年10月27日(火) 05:09


2009年06月24日(水)沖縄慰霊の日

 夏至も過ぎ、昨日は沖縄慰霊の日だった。
 東京にいると、ニュースや新聞を見ないと、気付かずに過ぎてしまうことかもしれないけれど、僕には、それなりに身近に感じられる日だ。
 僕なりに沖縄の人々や音楽などと親しんできたということもあるが、それとはまた別の理由のためでもある。
 
 時々、小平霊園にある添田唖蝉坊の墓参りをする。もちろん、唖蝉坊自身は直接、沖縄とのかかわりはなかった。しかし、彼のお墓のお隣さんが、ウチナンチュウの一家のお墓なのだ。一目で沖縄の人と分かる、典型的な沖縄の姓だ。
 まだ唖蝉坊の墓参りに行きはじめの頃、何気なく、そのお隣の墓誌に目が行ったのだが、そこに記されている簡潔な事実に、さっと血の気が引き、しばらく茫然としてしまった。お年寄りから幼子までの一家の何人もの人が、慰霊の日の直前に亡くなっているのだ。
 見ず知らずの「新垣さん」一家。どこでどうして命を落とすことになったのか僕は知らないままだ。それでも、毎年、慰霊の日が来るたびに、この一家のことを思い出さずにはおれない。
 そして、あれは井伏鱒二の『黒い雨』の中のセリフだったか、「どんな正義の戦争よりも不正義の平和のほうがまだましだ」という言葉が思い返されてくるのだ。

[link:47] 2009年06月24日(水) 03:58


2008年12月31日(水)二つの我方他方〜篠田祭りとマサル祭り

 ずいぶん空いてしまったが、08年を振り返りつつ再開したい。

 12月8、8日の篠田昌已生誕50年記念「FIESTA de COMPOSTELA」はおかげさまで盛況かつ大好評でした。
 出演者も、それぞれ短い時間でしたが、ベストパフォーマンスの連発で感激でした。
 記念パンフも、今までまとまった篠田資料集がなかった分、なんとか一里塚を残せたのではないかと。
 ご希望の方は700円でお分けします。
 また、すでに新宿・模索舎には絶賛発売中です。また、下北沢イーハトーボ、中野・タコシェでも近日発売予定です。
 そして、大ニュース!?
 あの、パフアップのCDシリーズが配給のVIVIDSOUNDから全作再発の運びとなりました!(3月から2タイトルずつの予定)


 さて、FIESTA de COMPOSTELAの2日目のラストに忘れがたい出来事が起こったので記しておきましょう。
 ちょうど、三重・亀山でスペース「月の庭」を主催していたマサル(またの名をダンサー・歌舞伎昌三)が、末期ガンで、友人家族に見守られながら最後の時を迎えていたのですが、イベント初日に出てくれた、じゃがたらのOTOが、そちらに応援に行っていて、僕らのステージを電話ライブで、病床のマサルに聞かせてくれたのです。
 これには、前段があって、その直前に、マサルの大好きなソウルフラワーがやはりライブ会場の神戸から、電話で「満月の夕」を聴かせる企画があり、
それを見たOTOが、機転をきかせてくれて電話ライブ第二弾となったわけです。
 マサルは部位が膀胱だったせいか、最後まで上半身、意識がしっかりしていて、そもそも余命2年の宣告が、4年も頑張れたのですが、その晩も、ほとんどの内臓が機能停止しているのに、音楽に涙をながし口を動かして、最後まで命の踊りを燃やしきって、その直後、安らかにテイクオフ、拍手で送られたとのこと。
 篠田〜マサル、と二つの我方他方(アバンタバン)がリンクした夜でした。マサルの元気なうちに月の庭に遊びに行くことはできなかったけど、モノノケサミットで妙な踊りで楽しませてくれた君のことは忘れない。ありがとう、マサル!

[link:46] 2008年12月31日(水) 06:48


2008年06月24日(火)慰霊の日・雑感

 慰霊の日が来ると思い出すことがある。小平霊園の添田啞蝉坊の墓に時々お参りに行くのだが、啞蝉坊の墓のお隣が沖縄の方のお墓なのだ。あるとき、何気なくそちらの墓誌に目が行って、さっと冷や汗が出た。幼児からお年寄りまで、何人もの一族の方が、同じ日に亡くなっているのだ。そう、もちろん、それは1945年6月のある日付である。

 ところで、沖縄といえば、実は沖縄返還にまつわる日米交渉の副産物であった日本の繊維不況は、わが家をも直撃したのであった。当時日米摩擦の焦点だった人絹製造の部分的廃止が沖縄返還の条件となったのだ。繊維メーカーの工場の現場管理職だった親父は、担当していた製造部門が消滅し、本社事務職へ転換。工場の主力部門で、部下も800人いたというが、全員が配置転換か、転職を余儀なくされた。
 各地を転々とした僕の故郷喪失の歴史は、沖縄とリンクしていたのだった。そんなことを再認識したのは、5月に祖母の葬儀があって家
族史を振り返る機会があったことに加え、ネグリの「マルティチュード」の一節、フォード・テーラーシステム〜ポスト・フォーディズムの転換が、1970年前後だったとの記述が目に入った…、いやストンと実にクリアに、頭に入ってきたのだ。
 そうか、わが家族の遍歴は、日米関係と産業史の掛け合わさった歴史のギヤチェンジを食らった、まさにその実例だったのか、と納得。
 「ディアスポラ」なんておこがましくて例えにもできないが、弾き飛ばされた感は確かにある。沖縄とともに必ず借りは返す決意。

[link:45] 2008年06月25日(水) 15:54

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