大熊ワタル気まぐれ日記:2006-03-18
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2006年03月18日(土)
「ナミイと唄えば」映画評
★映画「ナミイと唄えば」(本橋成一・監督)★3月18日からポレポレ東中野で公開
「三線片手に生きてきた―八重山おばあの歌と旅の物語」(映画チラシより)
こう書くと、またぞろ「おばあ」をダシに「沖縄の文化や芸能を持ち上げて、暗くて重い現実に向かい合う感性を麻痺させる」(目取間俊「沖縄『戦後』ゼロ年」)ような陰謀の片棒担ぎか、とあらぬ疑いをかけられそうだが、こっちは「沖縄最後のお座敷芸者」ナミイおばあの、奇跡的ロードムービーだ。
1921年、石垣に生まれ、6歳で母と死別、9歳で那覇のお座敷に身売りされ、きびしく歌・三線を仕込まれた。まさに人身売買ならびに児童労働である。あまりにつらくて、逃亡したり、子どもながらに死を考えたこともあるそうだが、不思議な体験に助けられ生き続けることになる。戦後も辛苦が続く。客の妻子ある博労に迫られ「2号さん」に。この男、小金でもあれば、すぐ巻き上げて使ってしまう。ナミイおばあが、方々の料亭やスナックで歌・三線でかせぎ、この「父ちゃん」を支え、子どもも育て、あげくのはて、病に倒れた本妻まで引き取って最期を見取っている。いわく、「悪人ほど捨てられない、だからアタシはだんなを絶対に捨てはしなかったさ」。まったく、親鸞や一遍が泣いて喜びそうなおばあである。
文字通り、数奇の運命、辛酸を舐めてきた。しかし、ナミイおばあは、涙という涙を流し切ってきたのか、御歳85の今もって血気盛んなのだ。
「五十、六十が蕾なら 七十、八十は花盛り」
「私の人生これからと 希望の花を咲かせましょう」
なんたって120歳まで歌い続けて周りの人々を楽しませることが彼女の希望なのだ。
そう、歌とは、このおばあにとって、生きている証し、「生の喜び」そのものであるようだ。原作者の姜信子(映画でもおばあの「家来」として、あるいは踊る黒子として登場)いわく、「他の全てを振り捨てて”喜び”だけを求めて歌うその声の底には、果てしなく深い人間の業の、唸りにも似た音が渦巻いている」。そして、この「業」の渦巻きに、周囲は次々に巻き込まれていくのである。
洗練された芸ではない。なんたって業の唸りだ。しかし、これがまた人の心のど真ん中に直撃する。琉球民謡だけでなく、童謡、軍歌、歌謡曲など、もうなんでもござれ、レパートリーは数知れず。人呼んで”人間ジュークボックス”だ。
ところで、お座敷歌というものに触れておこう。琉球民謡にかぎらずヤマトでも、歴史的に民謡の世界は、お座敷芸者の歌を忌避してきた。純粋なる民謡というイデオロギーのもと、お座敷歌を排除することで、民謡のアイデンティティーの線引きをしてきた。ナミイおばあも、そんなお座敷の出身として、長らく不可視の存在だった。
しかし、そんな下らないことはナミイおばあの知ったことではない。デイケアセンターや民謡酒場などで、おばあは大変な人気者。まさしく「無縁・公界(苦界)・楽」の世界である。
映画では「カレシ」と称される謎の男性も、なかなか味のある存在だ。石垣の忘れられた民衆史や戦史を掘り起こしてきた、地元では知られた人物だが、ここでは匿名での登場だ。自身、歌の名手でもあり、おばあの歌のよき理解者として、また姜のアドバイザーとして、絶妙のトライアングルをなしている。
おばあの一行が与那国や台湾を訪れたりするのは、戦時中に行き来した場所への再訪であるわけだが、たとえば台湾ではハンセン病施設「楽生治療院」や東部・花蓮の原住民(先住民)地域を訪問・交流している。これなどは、カレシ流のアドバイスによるもので、映画にも広がりを与えているし、何よりもマージナルな者同士の歌遊びが心を打つ。おばあは、そこで平然と軍歌を歌ったり(リクエストがあったからだが)、よりによって後遺症の残る人たちの前で「山田の案山子」を歌ったりと、こちらをハラハラドキドキさせるが、ナミイ・ビームの全くの無垢・イノセントさが、ここでも隔てのない心の交歓に力となっているようだ。
最後に、付言しておこう。木馬亭公演のシーンで、バックの鮮やかな色の幕絵が目を引く。クレジットを見よ! そこには「貝原浩」の名が燦然と輝いている。 聞けば遺作だそうである。画伯の下絵に、皆で指示通りに塗って仕上げたのだそうだ。優しく沁みるような色遣いである。
※原作は「ナミイ! 八重山のおばあの歌物語」(姜信子・著、岩波書店)
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2006年03月18日(土) 05:14
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「三線片手に生きてきた―八重山おばあの歌と旅の物語」(映画チラシより)
こう書くと、またぞろ「おばあ」をダシに「沖縄の文化や芸能を持ち上げて、暗くて重い現実に向かい合う感性を麻痺させる」(目取間俊「沖縄『戦後』ゼロ年」)ような陰謀の片棒担ぎか、とあらぬ疑いをかけられそうだが、こっちは「沖縄最後のお座敷芸者」ナミイおばあの、奇跡的ロードムービーだ。
1921年、石垣に生まれ、6歳で母と死別、9歳で那覇のお座敷に身売りされ、きびしく歌・三線を仕込まれた。まさに人身売買ならびに児童労働である。あまりにつらくて、逃亡したり、子どもながらに死を考えたこともあるそうだが、不思議な体験に助けられ生き続けることになる。戦後も辛苦が続く。客の妻子ある博労に迫られ「2号さん」に。この男、小金でもあれば、すぐ巻き上げて使ってしまう。ナミイおばあが、方々の料亭やスナックで歌・三線でかせぎ、この「父ちゃん」を支え、子どもも育て、あげくのはて、病に倒れた本妻まで引き取って最期を見取っている。いわく、「悪人ほど捨てられない、だからアタシはだんなを絶対に捨てはしなかったさ」。まったく、親鸞や一遍が泣いて喜びそうなおばあである。
文字通り、数奇の運命、辛酸を舐めてきた。しかし、ナミイおばあは、涙という涙を流し切ってきたのか、御歳85の今もって血気盛んなのだ。
「五十、六十が蕾なら 七十、八十は花盛り」
「私の人生これからと 希望の花を咲かせましょう」
なんたって120歳まで歌い続けて周りの人々を楽しませることが彼女の希望なのだ。
そう、歌とは、このおばあにとって、生きている証し、「生の喜び」そのものであるようだ。原作者の姜信子(映画でもおばあの「家来」として、あるいは踊る黒子として登場)いわく、「他の全てを振り捨てて”喜び”だけを求めて歌うその声の底には、果てしなく深い人間の業の、唸りにも似た音が渦巻いている」。そして、この「業」の渦巻きに、周囲は次々に巻き込まれていくのである。
洗練された芸ではない。なんたって業の唸りだ。しかし、これがまた人の心のど真ん中に直撃する。琉球民謡だけでなく、童謡、軍歌、歌謡曲など、もうなんでもござれ、レパートリーは数知れず。人呼んで”人間ジュークボックス”だ。
ところで、お座敷歌というものに触れておこう。琉球民謡にかぎらずヤマトでも、歴史的に民謡の世界は、お座敷芸者の歌を忌避してきた。純粋なる民謡というイデオロギーのもと、お座敷歌を排除することで、民謡のアイデンティティーの線引きをしてきた。ナミイおばあも、そんなお座敷の出身として、長らく不可視の存在だった。
しかし、そんな下らないことはナミイおばあの知ったことではない。デイケアセンターや民謡酒場などで、おばあは大変な人気者。まさしく「無縁・公界(苦界)・楽」の世界である。
映画では「カレシ」と称される謎の男性も、なかなか味のある存在だ。石垣の忘れられた民衆史や戦史を掘り起こしてきた、地元では知られた人物だが、ここでは匿名での登場だ。自身、歌の名手でもあり、おばあの歌のよき理解者として、また姜のアドバイザーとして、絶妙のトライアングルをなしている。
おばあの一行が与那国や台湾を訪れたりするのは、戦時中に行き来した場所への再訪であるわけだが、たとえば台湾ではハンセン病施設「楽生治療院」や東部・花蓮の原住民(先住民)地域を訪問・交流している。これなどは、カレシ流のアドバイスによるもので、映画にも広がりを与えているし、何よりもマージナルな者同士の歌遊びが心を打つ。おばあは、そこで平然と軍歌を歌ったり(リクエストがあったからだが)、よりによって後遺症の残る人たちの前で「山田の案山子」を歌ったりと、こちらをハラハラドキドキさせるが、ナミイ・ビームの全くの無垢・イノセントさが、ここでも隔てのない心の交歓に力となっているようだ。
最後に、付言しておこう。木馬亭公演のシーンで、バックの鮮やかな色の幕絵が目を引く。クレジットを見よ! そこには「貝原浩」の名が燦然と輝いている。 聞けば遺作だそうである。画伯の下絵に、皆で指示通りに塗って仕上げたのだそうだ。優しく沁みるような色遣いである。
※原作は「ナミイ! 八重山のおばあの歌物語」(姜信子・著、岩波書店)