大熊ワタル気まぐれ日記:2006-11-04
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2006年11月04日(土)
9月「態変」テント公演「ラ・パルティーダ」参加リポート
※以下はplanB通信11月号に書いた<当世音楽解体新書>第11回「続・右往左往の記」を若干手直ししたものです。
9月の下旬、大阪は梅田に近い扇町公園で、劇団「態変」(※)のテント公演「ラ・パルティーダ」に参加してきた。
(※)主宰・金満里の「身体障害者の障害じたいを表現力に転じ、未踏の美を創り出すことができる」という着想に基づき、身障者自身が演出し、演じる劇団として1983年より大阪を拠点に活動を続けている。(「態変」HPより)
「態変」は金満里をはじめ、役者全員が身体に重いハンディーをもつ。彼女のように車椅子で日常生活を送る人も多いし、なかには、ほとんど身動きできない寝たきりの人もいる。寝たきりで一体何が出来るんだ? 知らない人は、そんな疑問を持つかもしれない。しかし、普通の意味、いや健常者の感覚では一見無力と思えるような、そんな役者が、態変の舞台ではインパクト大なのだ。
あっけらかんと全てをありのままに。そんな風に、全員レオタード姿で、体の輪郭を舞台に晒すのが「態変」のスタイルだ。それは「弱者」として同情を買おうというのでは勿論なく、また「虐げられた者の声を聞け」と突きつけるのでもない。しかし、強い、弱い、ではない個別性を突き詰めることで、彼女らの舞台は有無を言わせず突き抜けた磁場となる。
さて、今回の公演は「ラ・パルティーダ」。その名の通り、1973年に虐殺されたチリの歌い手、ビクトル・ハラとその時代を題材とし、近頃ありえないようなパフォーマンスとなった。
ビクトルは、チリの民主化運動のシンボル的なシンガーソングライターで、当時民主化運動とともに盛んになった「ヌエバ・カンシオン(「新しい歌」運動)」の旗手だった。70年、チリでは世界初の選挙で選ばれた社会主義政権が誕生したが、アメリカの肝いりの軍事クーデターで潰された。アメリカ系の財閥が押さえていた鉱山の利権を失うことを恐れたからだという。
(ちなみに、チリの軍事クーデターは73年の9・11。歴史は繰り返していた!)
政庁に立てこもったアジェンデ大統領は空爆の末、抹殺。民主化のシンボル的存在だったビクトルも、数千の民衆とともに虐殺。収容されたスタジアムで、最後まで歌で抵抗し、仲間を鼓舞したので、二度とギターが弾けないよう手を砕かれた挙句、風穴だらけに射殺されたのだ。
このような、強烈な悲劇の主人公なので、彼を語ること自体が「政治的」として敬遠されたり、逆にまた、政治主義的な「語られ方」もあっただろう。そのためか、日本の某音楽雑誌では、民謡歌手やポピュラー歌手と比較すれば、ビクトルなんぞ本物ではない、悲劇のヒーローとして過大評価されている、というような難癖が付けられたりもした。好みはそれぞれあるだろう。また、悲劇の伝説とリンクして語られるのは仕方ない。ビクトルが、その夢を託した時代に、彼のすべてを捧げたのだから。彼の歌と、その時代は、切っても切り離すことができない。しかしまた、多くのビクトル・ファンは、その美しい旋律、歌声、それ自体に感動してきた。目的先行の言葉ではなく、声や音の力で、人々の支持を集めた。だからこそ、長く歌い継がれ、今回の公演にもつながっているといえる。
今回の公演で、音楽も即席の楽団(※)による生演奏だったが、ひとつのポイントは、歌手・八木啓代の参加だ。
(※ 筆者のほか、広島のライブハウス「OTIS!」のマスター佐伯雅啓を中心に、二胡やダブル・ディジェリドゥーなど、なかなかユニークな編成だった。)
八木は、スペイン語歌謡の専門家で、ビクトルやラテンアメリカの事情に造詣の深い事で知られる。近年はむしろ著作家として活躍しているようだが、初の著書も、まさにビクトルとその時代に迫った「禁じられた歌」(1990年)だった。そのこともあり、ビクトルの歌なら、さぞ手慣れたレパートリーなのだろうと思い込んでいた。しかし、世の中そんなに単純ではなかった。むしろ、思いの強いビクトルの歌であるからこそ、彼女は自身のレパートリーとはしてこなかったのだ。今回、何曲ものビクトルナンバーを力強く歌い上げた八木だが、事実上それは初めてのことだったという。これは正直、驚きだった。それだけ彼女の歌には、彼女ならではというべき「背骨」の確かさを感じさせていたからだ。
また「態変」の役者も、それぞれの力強さでビクトルの歌の世界に迫り、公演ごとにテントは大きな感動で包まれた。告白するなら、事前には、ぶっきらぼうなアジ演劇に陥らないよう、どう持っていくのか(それならそれで、近頃珍しい見ものではあるが)、と半信半疑だったのだ。
しかし、そこはセリフのない芝居でもあり、役者の身体の存在感に、すべては持っていかれた。それこそ、金満里らの、「不自由」な身体ゆえの、別な発想…、怒りや悲しみ、そしてそれを超えようとする希望や夢、それらがそうさせたのだろう。そして、大きな意味で、それは、ビクトルの歌声や旋律と共振するものだったと言ってよいだろう。
ふたつの付け足し。まずは良い方から。八木は、最終日の打ち上げで一本のワインを持参、一同に振舞った。これは16年前、彼女が、チリの軍政が終わり、民主化を遂げた直後、サンチャゴでスラム街を慰問公演に訪れた際、ギャラ代わりに渡されたものだった。その公演は右翼に襲われ銃撃されかけたが、住民が体を張って事なきを得たという。そんな貴重なワインなので、八木は、封を切ることなく、ずっと大阪の実家にとっておいたのだが、今回の公演で、今こそ封を切るとき、と思い立ったのだ。開ける前は、「酢」になってないか、煙が出てこないか、と大騒ぎしながらの乾杯だったが、濃厚な熟成ぶりに、一同はさらなる感動に包まれた。それは、大阪のテントと、サンチャゴの、ビクトルの余韻が残る空気とがつながった一瞬だった。
最後に、面白くない方の話も。会場となった扇町公園は、公演の直前まで、野宿者たちの緊急用の拠点テントがあったのだが、それらが強制排除となったばかりだったのだ。それは野宿者を追い出した直後の野外劇フェスティバルでもあったというのだ。もちろん、それは、劇団の範疇というよりは、もっと大きなイベントを口実に行われた行政の、ひいては社会全体の問題であるにせよ、不可視化される都市の貧困と、それを可視化して向き合おうとする舞台の、微妙なすれ違いであったと言わなければならない。(文中敬称略)
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2006年11月04日(土) 07:27
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9月の下旬、大阪は梅田に近い扇町公園で、劇団「態変」(※)のテント公演「ラ・パルティーダ」に参加してきた。
(※)主宰・金満里の「身体障害者の障害じたいを表現力に転じ、未踏の美を創り出すことができる」という着想に基づき、身障者自身が演出し、演じる劇団として1983年より大阪を拠点に活動を続けている。(「態変」HPより)
「態変」は金満里をはじめ、役者全員が身体に重いハンディーをもつ。彼女のように車椅子で日常生活を送る人も多いし、なかには、ほとんど身動きできない寝たきりの人もいる。寝たきりで一体何が出来るんだ? 知らない人は、そんな疑問を持つかもしれない。しかし、普通の意味、いや健常者の感覚では一見無力と思えるような、そんな役者が、態変の舞台ではインパクト大なのだ。
あっけらかんと全てをありのままに。そんな風に、全員レオタード姿で、体の輪郭を舞台に晒すのが「態変」のスタイルだ。それは「弱者」として同情を買おうというのでは勿論なく、また「虐げられた者の声を聞け」と突きつけるのでもない。しかし、強い、弱い、ではない個別性を突き詰めることで、彼女らの舞台は有無を言わせず突き抜けた磁場となる。
さて、今回の公演は「ラ・パルティーダ」。その名の通り、1973年に虐殺されたチリの歌い手、ビクトル・ハラとその時代を題材とし、近頃ありえないようなパフォーマンスとなった。
ビクトルは、チリの民主化運動のシンボル的なシンガーソングライターで、当時民主化運動とともに盛んになった「ヌエバ・カンシオン(「新しい歌」運動)」の旗手だった。70年、チリでは世界初の選挙で選ばれた社会主義政権が誕生したが、アメリカの肝いりの軍事クーデターで潰された。アメリカ系の財閥が押さえていた鉱山の利権を失うことを恐れたからだという。
(ちなみに、チリの軍事クーデターは73年の9・11。歴史は繰り返していた!)
政庁に立てこもったアジェンデ大統領は空爆の末、抹殺。民主化のシンボル的存在だったビクトルも、数千の民衆とともに虐殺。収容されたスタジアムで、最後まで歌で抵抗し、仲間を鼓舞したので、二度とギターが弾けないよう手を砕かれた挙句、風穴だらけに射殺されたのだ。
このような、強烈な悲劇の主人公なので、彼を語ること自体が「政治的」として敬遠されたり、逆にまた、政治主義的な「語られ方」もあっただろう。そのためか、日本の某音楽雑誌では、民謡歌手やポピュラー歌手と比較すれば、ビクトルなんぞ本物ではない、悲劇のヒーローとして過大評価されている、というような難癖が付けられたりもした。好みはそれぞれあるだろう。また、悲劇の伝説とリンクして語られるのは仕方ない。ビクトルが、その夢を託した時代に、彼のすべてを捧げたのだから。彼の歌と、その時代は、切っても切り離すことができない。しかしまた、多くのビクトル・ファンは、その美しい旋律、歌声、それ自体に感動してきた。目的先行の言葉ではなく、声や音の力で、人々の支持を集めた。だからこそ、長く歌い継がれ、今回の公演にもつながっているといえる。
今回の公演で、音楽も即席の楽団(※)による生演奏だったが、ひとつのポイントは、歌手・八木啓代の参加だ。
(※ 筆者のほか、広島のライブハウス「OTIS!」のマスター佐伯雅啓を中心に、二胡やダブル・ディジェリドゥーなど、なかなかユニークな編成だった。)
八木は、スペイン語歌謡の専門家で、ビクトルやラテンアメリカの事情に造詣の深い事で知られる。近年はむしろ著作家として活躍しているようだが、初の著書も、まさにビクトルとその時代に迫った「禁じられた歌」(1990年)だった。そのこともあり、ビクトルの歌なら、さぞ手慣れたレパートリーなのだろうと思い込んでいた。しかし、世の中そんなに単純ではなかった。むしろ、思いの強いビクトルの歌であるからこそ、彼女は自身のレパートリーとはしてこなかったのだ。今回、何曲ものビクトルナンバーを力強く歌い上げた八木だが、事実上それは初めてのことだったという。これは正直、驚きだった。それだけ彼女の歌には、彼女ならではというべき「背骨」の確かさを感じさせていたからだ。
また「態変」の役者も、それぞれの力強さでビクトルの歌の世界に迫り、公演ごとにテントは大きな感動で包まれた。告白するなら、事前には、ぶっきらぼうなアジ演劇に陥らないよう、どう持っていくのか(それならそれで、近頃珍しい見ものではあるが)、と半信半疑だったのだ。
しかし、そこはセリフのない芝居でもあり、役者の身体の存在感に、すべては持っていかれた。それこそ、金満里らの、「不自由」な身体ゆえの、別な発想…、怒りや悲しみ、そしてそれを超えようとする希望や夢、それらがそうさせたのだろう。そして、大きな意味で、それは、ビクトルの歌声や旋律と共振するものだったと言ってよいだろう。
ふたつの付け足し。まずは良い方から。八木は、最終日の打ち上げで一本のワインを持参、一同に振舞った。これは16年前、彼女が、チリの軍政が終わり、民主化を遂げた直後、サンチャゴでスラム街を慰問公演に訪れた際、ギャラ代わりに渡されたものだった。その公演は右翼に襲われ銃撃されかけたが、住民が体を張って事なきを得たという。そんな貴重なワインなので、八木は、封を切ることなく、ずっと大阪の実家にとっておいたのだが、今回の公演で、今こそ封を切るとき、と思い立ったのだ。開ける前は、「酢」になってないか、煙が出てこないか、と大騒ぎしながらの乾杯だったが、濃厚な熟成ぶりに、一同はさらなる感動に包まれた。それは、大阪のテントと、サンチャゴの、ビクトルの余韻が残る空気とがつながった一瞬だった。
最後に、面白くない方の話も。会場となった扇町公園は、公演の直前まで、野宿者たちの緊急用の拠点テントがあったのだが、それらが強制排除となったばかりだったのだ。それは野宿者を追い出した直後の野外劇フェスティバルでもあったというのだ。もちろん、それは、劇団の範疇というよりは、もっと大きなイベントを口実に行われた行政の、ひいては社会全体の問題であるにせよ、不可視化される都市の貧困と、それを可視化して向き合おうとする舞台の、微妙なすれ違いであったと言わなければならない。(文中敬称略)