大熊ワタル気まぐれ日記:2007-10-13


2007年10月13日(土)ビルマの軍艦マーチ

planB通信10月号・当世音楽解体新書より
「ビルマの軍艦マーチ」
 軍政の続くビルマ(ミャンマー)で、連日、市民の抗議行動が続いている。日本人ジャーナリスト・長井健司さんが取材中に射殺されたことで日本でも大きく報道された。長井さんが倒れたまま、カメラを逃げ惑う民衆に向け続けた最後の姿に、衝撃と感銘を受けた人も多いだろう。
 抗議行動は、軍の冷酷で徹底的な弾圧により押さえ込まれつつあるようだが、それはアウンサンスーチーさんたち国民民主連盟(NLD)の民主化運動が盛り上がった1988年以来の激しい動きだった。日本にも、ビルマから逃れてきた政治的難民も少なくない。
この機会に、あらためてビルマの軍事政権と、民主化、そして、それらと日本の関係を考えてみよう。
 まず、ミャンマーという呼称について。これは、現在の軍事政権が、89年に、それまでのビルマから、ミャンマーに正式名称を変更したわけだが、この二つの単語の指示する意味の差異は、たんに口語的表現か、文語的表現かといった違いにすぎないようだ。しかし、その正統性に大きな疑問のある軍事政権が決定した名称変更ということで、「ミャンマー」と「ビルマ」のどちらを取るか、軍事政権との関係性・スタンスが現れてくる。
 欧米では、軍政の人権問題などを重視して、外交的にも報道的にも、ビルマの呼称(すくなくとも併称)が一般的だが、経済・軍事的に利害関係のある中国やロシアは、ミャンマー側一辺倒だし、日本も、ODAなどで経済的関係があり、すぐに軍事政権を認めたミャンマー派だ。
 ここでビルマの歴史を少し振り返ってみると、まず19世紀後半、隣接する植民地インドの宗主国イギリスとの抗争に敗れ、ビルマはイギリス植民地となった(1885)。第一次世界大戦の頃から独立運動が盛んになったが、30年代末に、反英運動の若きリーダーとして頭角を現したのがアウンサンであり、アウンサンスーチーは、その長女にあたる。
 第二次世界大戦中、アウンサンたちの反英運動に目を付けたのが、日本軍の特務機関である南機関だった。当時ビルマは、連合国から中国への補給路となっていたので、日本軍にとってビルマの若者たちの反英運動は大いに利用価値のあるものだったのだ。南機関は、アウンサンたちを国外脱出させ、日本にかくまったり、同志を募らせ海南島などで軍事訓練を受けさせるなど、さまざまな支援をした。そして41年、アウンサンたちは南機関の肝いりで独立義勇軍を組織、日本軍と共闘して42年には英印軍を敗走させた。
 しかし、日本軍中枢は、アウンサンたちの独立を反故にし、独立運動に深入りした南機関は軍中枢と齟齬をきたし解散となる。日本軍への不信(略奪・強制労働などもあった)を経て、日本軍の敗色が濃くなると、アウンサンたちは、イギリスなどの連合軍に寝返り、45年、抗日闘争に勝利した。対日戦略のため、アウンサンたちを支援したイギリスもまた、独立の約束を反故にして、ビルマは再びイギリス植民地となったが、独立運動を止める事はできなかった。しかし、アウンサンは、48年の独立直前に政敵に暗殺され、待望の日を見ることはなかった。
 このように、ビルマ独立と、それを担ったビルマ国軍は、旧日本軍と浅からぬ関係があり、そのため、戦後も国軍リーダーたちは親日派であり、あるいは、その振る舞いによって、対日政策で、利益を誘導してきたとも言える。しかし、現在でもミャンマー国軍のマーチが、まず行進曲「軍艦」で始まるという例からも、「親日」が方便だけでなく、軍政のDNAに、旧日本軍の遺伝子が組み込まれていることが分かる。
 筆者は、軍艦行進曲の実例は未聴だが、ミャンマー国軍による、別な日本の軍楽をTVで聞いて腰を抜かしそうになったことがある。それは、アウンサンスーチーさんたちの民主化運動や軍政によるクーデターなどを報じた、NHKの報道番組だったが、そこで聞こえてきたのは、筆者が、チンドン屋で聞き覚えた通称「ゴタイテン(御大典)マーチ」にほかならなかった。今、試みにネット検索してみても、そのようなタイトルの曲は見当たらないが、おそらくは昭和天皇の即位にさいして作られた行進曲が、後々、チンドン屋のレパートリーに僅かに生き残ったのだろう。
 チンドン楽士として、その曲を自分自身、何度か演奏したことがあったので、TVから聞こえてきたミャンマー国軍の演奏には、歴史にアタマを殴られたような衝撃を覚えたものだ。
 さて、日本人は経済的諸関係などにおいて、ミャンマー軍政に直接・間接に加担してきたともいえる。ビルマの民衆の叫びは他人事といえるだろうか?

[link:39] 2007年10月13日(土) 04:56