2007年11月01日(木)「mit Tuba」(瀬川深)書評
[link:40] 2008年03月24日(月) 07:18
2007年11月01日(木)「アラン・ローマックス選集」書評
(本稿はplanB通信11月号の「当世音楽解体新書」に若干加筆したものです。)
秋の夜長にふさわしく、今回は本の紹介を。
『アラン・ローマックス選集 アメリカン・ルーツ・ミュージックの探究1934-1997』(柿沼敏江訳・みすず書房)
副題にあるように、アラン・ローマックスは、北米の民間音楽・民衆音楽を世に広めた第一人者だ。今まで、断片的に名前だけ聞こえていたローマックスの仕事の全容が一挙に目の前に! これはちょっとした事件だ!
「アメリカのフォーク、ブルース、ジャズの発展に決定的な影響を及ぼした男」(帯コピー)
「彼がいなかったとしたらブルースの爆発もR&Bの運動もなかっただろうし、ビートルズもローリング・ストーンズもヴェルヴェット・アンダーグラウンドも生まれなかっただろう」(ブライアン・イーノ)
これらは決して大げさな言葉とはいえない。彼の父、ジョン・ローマックスも民謡収集家だった。若干18歳で、父の民謡収集活動の助手としてアランのキャリアは始まった。そして、20歳そこそこで、議会図書館のアメリカ民謡資料室のディレクターに任命されたときは、すでに「膨大なフィールドワークをこなし」「よく訓練されたベテラン」だったという。
ローマックス父子は、南部を中心に、作業歌、酒場の歌、無法者のバラッドなど、黒人の「世俗歌曲」や、植民者の末裔たちが伝える、ヨーロッパ由来の古いバラッドなどを記録・収集した。農園や、線路工事の現場、監獄など、実にさまざまな場所に、当時の重い録音機材を携えて出没した取材の様子が興味深い。
アランはまた、左翼の活動家だったと伝えられるが、時代がルーズベルト大統領のニューディール時代だったことも大きいだろう。北米で、労働者や農民、失業者たちなどの社会主義運動がもっとも盛んだったころだ。一時期、ホワイトハウスの文化事業にも関与している。予算もとりやすかっただろう。
当時のアメリカ社会が、それまでのヨーロッパ・コンプレックスから脱し、「アメリカらしさ」を探していた時期だったことも、ローマックスの仕事がアピールする後押しになったようだ。
戦後になると、8年間という長期にわたって、ヨーロッパに渡り、またもや各地で民謡収集活動を展開した。この「国外脱出」の大きな理由は、冷戦時代とともに米国が迎えた、悪名高い「赤狩り」の季節を避けるためだった。しかし、その副産物は実り多いものとなった。
当時のヨーロッパには、かつてアランが父の助手を始めた頃の北米同様、各地の民謡が、ほとんど外部に知られないまま手付かずで残っていた。スペインやイタリアでの民謡調査・収集など、彼の記録が、初の録音となったという例が山ほどあるようだ。
また、50年代のイギリスでブームを迎えようとしていたスキッフル(アメリカのブルースの模倣から始まったバンド・ブーム。ブリティッシュ・ロックの伏線になった)のシーンにもかかわった。そもそもスキッフルの起爆剤となったのが、かつてローマックス父子が監獄で「発見」したブルース歌手・レッドベリーの曲のカバーだったわけで、その意味では、ブリティッシュ・ロックの産婆役をも果たしたと言えるかもしれない。
さて、ローマックスは、歴史的な記録を膨大に収集しただけではなく、それを社会に紹介するラジオ番組やレコードのプロデューサーとしても手腕を発揮した。メディアとの関わりにおいても、マイノリティーの尊重や文化的平等といったローマックスのモットーが生かされた。そこには、後の「ワールドミュージック」のましな部分を先取りしているといえる。
ウッディー・ガスリーのような、フォーク・シンガーを紹介し、ピート・シーガー(をはじめとするシーガー一家)ら、フォーク・ムーブメントの牽引役を果たしたことも大きな功績だ。言うまでもなく、北米から火がついたフォーク・リバイバルは、その後ヨーロッパはもちろん、日本など多くの国々を席巻した。
ところで、ローマックスの青年時代、日本でも音楽学者たちにより、NHKの「民謡大観」の収集作業が行われている。もちろんローマックスとは、文脈も、視点も大きく異なっているが、同時代の民謡収集作業として比較検討するのも面白いかもしれない。
また「戦後」では、学際的な視点で世界の民俗音楽を紹介した小泉文夫や、独自のスタンスで沖縄音楽を紹介した竹中労、そして大道芸などの忘れられた民衆芸能にスポットを当てた小沢昭一ら各氏も、比較対象として想定できるだろう。
それにしても、ジャズ、ブルース、そしてそれらの鬼子たるロック…、これら北米発のポピュラー音楽の、そのどこを切っても、ローマックスのエコーが聞こえてくるということになる。
これら北米由来の音楽は、日本においても、あって当たり前のような存在となって久しいが、ローマックスの仕事の全容が見えてきたことによって、アメリカ(あくまで北米ではあるが)音楽とは何か、また日本における北米音楽の受容のあり方について、あらたな側面も見えてくるのではないだろうか。
それらが「ここ」において「自明」であるということ自体、植民地主義的(コロニアル)な出来事だと言えるのだが、ローマックスの仕事の再検討は、「われわれ」にとってのアメリカ音楽について、ポストコロニアル的な読解を促す起爆剤となりうるだろう。
それはともかく、本書で、ローマックス自身の声に触れるだけでも興味は尽きない。また彼の残した貴重な記録音源は、現在、ラウンダーレコードから、続々と再リリース中で、そちらも要注目だ。
秋の夜長にふさわしく、今回は本の紹介を。
『アラン・ローマックス選集 アメリカン・ルーツ・ミュージックの探究1934-1997』(柿沼敏江訳・みすず書房)
副題にあるように、アラン・ローマックスは、北米の民間音楽・民衆音楽を世に広めた第一人者だ。今まで、断片的に名前だけ聞こえていたローマックスの仕事の全容が一挙に目の前に! これはちょっとした事件だ!
「アメリカのフォーク、ブルース、ジャズの発展に決定的な影響を及ぼした男」(帯コピー)
「彼がいなかったとしたらブルースの爆発もR&Bの運動もなかっただろうし、ビートルズもローリング・ストーンズもヴェルヴェット・アンダーグラウンドも生まれなかっただろう」(ブライアン・イーノ)
これらは決して大げさな言葉とはいえない。彼の父、ジョン・ローマックスも民謡収集家だった。若干18歳で、父の民謡収集活動の助手としてアランのキャリアは始まった。そして、20歳そこそこで、議会図書館のアメリカ民謡資料室のディレクターに任命されたときは、すでに「膨大なフィールドワークをこなし」「よく訓練されたベテラン」だったという。
ローマックス父子は、南部を中心に、作業歌、酒場の歌、無法者のバラッドなど、黒人の「世俗歌曲」や、植民者の末裔たちが伝える、ヨーロッパ由来の古いバラッドなどを記録・収集した。農園や、線路工事の現場、監獄など、実にさまざまな場所に、当時の重い録音機材を携えて出没した取材の様子が興味深い。
アランはまた、左翼の活動家だったと伝えられるが、時代がルーズベルト大統領のニューディール時代だったことも大きいだろう。北米で、労働者や農民、失業者たちなどの社会主義運動がもっとも盛んだったころだ。一時期、ホワイトハウスの文化事業にも関与している。予算もとりやすかっただろう。
当時のアメリカ社会が、それまでのヨーロッパ・コンプレックスから脱し、「アメリカらしさ」を探していた時期だったことも、ローマックスの仕事がアピールする後押しになったようだ。
戦後になると、8年間という長期にわたって、ヨーロッパに渡り、またもや各地で民謡収集活動を展開した。この「国外脱出」の大きな理由は、冷戦時代とともに米国が迎えた、悪名高い「赤狩り」の季節を避けるためだった。しかし、その副産物は実り多いものとなった。
当時のヨーロッパには、かつてアランが父の助手を始めた頃の北米同様、各地の民謡が、ほとんど外部に知られないまま手付かずで残っていた。スペインやイタリアでの民謡調査・収集など、彼の記録が、初の録音となったという例が山ほどあるようだ。
また、50年代のイギリスでブームを迎えようとしていたスキッフル(アメリカのブルースの模倣から始まったバンド・ブーム。ブリティッシュ・ロックの伏線になった)のシーンにもかかわった。そもそもスキッフルの起爆剤となったのが、かつてローマックス父子が監獄で「発見」したブルース歌手・レッドベリーの曲のカバーだったわけで、その意味では、ブリティッシュ・ロックの産婆役をも果たしたと言えるかもしれない。
さて、ローマックスは、歴史的な記録を膨大に収集しただけではなく、それを社会に紹介するラジオ番組やレコードのプロデューサーとしても手腕を発揮した。メディアとの関わりにおいても、マイノリティーの尊重や文化的平等といったローマックスのモットーが生かされた。そこには、後の「ワールドミュージック」のましな部分を先取りしているといえる。
ウッディー・ガスリーのような、フォーク・シンガーを紹介し、ピート・シーガー(をはじめとするシーガー一家)ら、フォーク・ムーブメントの牽引役を果たしたことも大きな功績だ。言うまでもなく、北米から火がついたフォーク・リバイバルは、その後ヨーロッパはもちろん、日本など多くの国々を席巻した。
ところで、ローマックスの青年時代、日本でも音楽学者たちにより、NHKの「民謡大観」の収集作業が行われている。もちろんローマックスとは、文脈も、視点も大きく異なっているが、同時代の民謡収集作業として比較検討するのも面白いかもしれない。
また「戦後」では、学際的な視点で世界の民俗音楽を紹介した小泉文夫や、独自のスタンスで沖縄音楽を紹介した竹中労、そして大道芸などの忘れられた民衆芸能にスポットを当てた小沢昭一ら各氏も、比較対象として想定できるだろう。
それにしても、ジャズ、ブルース、そしてそれらの鬼子たるロック…、これら北米発のポピュラー音楽の、そのどこを切っても、ローマックスのエコーが聞こえてくるということになる。
これら北米由来の音楽は、日本においても、あって当たり前のような存在となって久しいが、ローマックスの仕事の全容が見えてきたことによって、アメリカ(あくまで北米ではあるが)音楽とは何か、また日本における北米音楽の受容のあり方について、あらたな側面も見えてくるのではないだろうか。
それらが「ここ」において「自明」であるということ自体、植民地主義的(コロニアル)な出来事だと言えるのだが、ローマックスの仕事の再検討は、「われわれ」にとってのアメリカ音楽について、ポストコロニアル的な読解を促す起爆剤となりうるだろう。
それはともかく、本書で、ローマックス自身の声に触れるだけでも興味は尽きない。また彼の残した貴重な記録音源は、現在、ラウンダーレコードから、続々と再リリース中で、そちらも要注目だ。
[link:41] 2007年11月01日(木) 10:01
http://www.chikumashobo.co.jp/dazai/23/
正直、どんな風にネタになっているのだろう?と一抹の警戒心もあった。しかし、ちょうど、ある音楽雑誌から、書評の依頼があったので読んでみると、それは杞憂で、気持ちのよい小説だった。
この作品は、太宰賞の最終審査に残ったほかの三作とともに筑摩書房からの太宰賞ムックとして刊行されている。それによれば、二次審査を通過した作品だけで、何十作もあり、さらに最終審査を経た四作品のなかから、最終的にただ1作選ばれたのがこの作品だ。チューバという一風変わった楽器を通して音楽の楽しさを描いた、しかも、よりによってシカラムータやファンファーレ・チョカーリアをモチーフとして描かれたような作品が、そのような受賞作となったことに、率直に祝福の言葉を捧げたい。
<以下本文・ミュージックマガジン誌に書いた原稿に若干加筆したもの>
音楽小説というくくり方なら、いろいろ作品があるだろう。しかし、楽器がテーマの小説はあまりないかもしれない。太宰治賞選者の小川洋子さんが「楽器小説の誕生」と評していたが、ギターやサックスなどではなく、チューバという「縁の下の力持ち」的な楽器であるところが面白い。
そしてチューバを愛する主人公は、まだ20代の女性だ。チューバ娘!大きな図体のチューバと、うら若き女性という組み合わせもなかなか妙だ。彼女は、中学時代、部活のブラスバンドでさしたる理由もなく、チューバのパートを割り当てられる。賑やかな他のパートにくらべ、チューバは先輩と主人公の2人だけ。朴訥だが、音楽の深さに通じている先輩のキャラクターが印象的。そして高校のブラバンでは集団の人間関係に馴染めず退部。その後、会社勤めの傍ら、気の向くままに河原で風に吹かれながら練習する「インディペンダント」のチューバ吹きに。
そもそも金管楽器は、軍楽など集団演奏を主目的に発達してきたと思われるが、集団には、個々の限られた力を共同作業で足し算以上のものにする可能性がある半面、とかく閉鎖的になったり、同質化圧力が辛かったりしがちだ。この小説でも、そのあたりが主要な背景として描かれている。
主人公が、地下鉄で遭遇した「黒帽子のクラリネット男」に誘われ、我楽多楽團という一癖もふた癖もある連中の活動に加わるところから小説は動きだす。彼らのレパートリーや、メンバーの様子など、モデルとなったバンドを知る人は、ニヤニヤせずにおれないだろう(※)。
しかし、この小説の強みというか美点は、そういった楽器や人物の描写だけでなく、何よりも音楽が弾けたり高揚する瞬間をよくつかまえていることだ。
飛翔する旋律を、大地の黒い土となって支える、というチューバ魂や、バルカンバンドの演奏が爆発するくだりなど、何度読んでも胸が熱くなる。
(※)「黒帽子」以外にも「バイオリンのケータさん」「チャンチキ太鼓のバンマス」たちが、「不屈の民」や「四丁目」はたまた「鳥の歌(と思しきカタロニア民謡)」を演奏したりする。