大熊ワタル気まぐれ日記:2007-12-06


2007年12月06日(木)市ヶ谷掃苔記〜なき学館のエコーが聞こえた

以下、planB通信12月号の連載コラムに書いたものです。自主法政祭(11月22日)に出演した際のレポート。

「当世音楽解体新書 第22回」
市ヶ谷掃苔記〜なき学館のエコーが聞こえた

 法政大学といえば、少し前まで「学館」(自主管理やオープンなイベントで知られた学生会館)を即座にイメージしたものだ。2004年に学館が解体されてからは、もう法政にも縁がないだろうと思っていたが、この秋にまた「自主法政祭」のコンサート出演依頼があり、3年ぶりに市ヶ谷で演奏してきた。
 前回のステージは、まさに学館のクロージング・パーティーだった。簡略に振り返ると、2003年、04年とボヤが続発し、消防署の査察・警告もあって、夏ごろには学校当局が建て替えに向け早期の閉鎖を決定。学生たちは、その流れをひっくり返すことはできなかったが、11月の学祭オールナイト・ライブは館内で決行。僕のバンドがゲストバンドに呼ばれ、学館に最後の別れを告げる演奏をしたのだった。
 学館は、74年のオープン当初から学生の実力入館による誇り高い自治空間だったが、30年が経ち、吸い殻の不始末や、空き部屋のコンセントに積もったホコリから失火するような、違う意味での危険な施設になってしまった。
 当局も、コントロールのきかない学館は、邪魔だったのだろう。04年夏の閉鎖決定後、即座に新施設のプランが発表されたが、あまり手際がよいので、傍目には「不審火騒ぎ」自体に対し不審の念が湧くくらいだった。
(くわしくは拙文「コンクリートは解体できても歌の在りかは消せはしない」=<音の力>ストリート占拠編・所収=参照)
 さて今回の話に戻ろう。例年の暖冬とは違い、真冬のような風で、野外ステージは、冗談でなく寒かった。 そして会場は、学館のかわりに建てられた新施設の脇。 また楽屋はまさにその新施設の一室。学館の最期に付き合った僕としては、ちょっと微妙だ。
 救いは、スタッフの若い学生達が、てきぱきと、よく動いてくれたことだ。「自主法政祭」とあるように、音響も照明も、裏方もすべて学生が自ら担当するのが学館の流儀だったが、そのスタイルはしっかり継承されていた。ナマの学館を体験した世代は、今の4年生で最後だが、さらに若い世代も含め、彼女・彼らなりに、今はなき学館や、そのあり方を正面から受け止めているようだった。
 もちろん、あの独特のホールはもう存在しないし、変に神話化してもしょうがない。しかし一般的には、学館だの、学生自治だの、どこへやら、という流れなのだろう。
 だからこそ、昔話としてではなく、今後のためにも学館の記憶を絶やしては、もったいない。お仕着せではない、オルタナティブな公共空間、自律的な場は、必要でありながら、つねに不足なのであり(なぜなら市場原理からはずれているから)、僕らはその種の不足には我慢すべきではないのだ。過去にしがみつくのではなく、あたらしい風に吹かれながらも、「変わり続ける同じもの」の歌に耳を澄ませていこう。

(*)あるブログに、法政の学館の設計者のインタビューが載っていた。かつて法政二部の学生新聞に掲載された記事の再録らしい。「『自由・自治・建築』という設計思想の基、都市をイメージした」などの興味深い裏話だ。「法政大学学生会館 設計者インタビュー」でヒットするはず。

[link:42] 2007年12月06日(木) 05:10