2005年06月13日(月) 東地中海・旅日記(その1)
[link:15] 2005年08月25日(木) 04:52
2005年06月14日(火)東地中海・旅日記(その2)
14日 ドバイ空港(UAE)にてトランジット
ドバイ空港は凄い、と聞かされていたので驚きというほどではなかったが、さすが金満産油国UAEご自慢の空港ということはある。国の規模は小さいが、資金に物を言わせて造った、おそらくはアラビア半島最大の空の玄関なのだろう。
タックスフリー売場の賑わいと品揃え(ベンツの車まで陳列してある)や、いろんな民族衣装の人々がひっきりなしに行き交うようすなど、まさに諸国民の十字路。空港自体が一大マーケットのよう。例えが悪いが、閑古鳥の関空などとくらべると大変な差だ。アラビア半島のみならず、南アジアからアフリカまで、広大なエリアをカバーする拠点空港となっていることを実感した。
ところで、この“市場”では、労働力も出入りが活発なようだ。空港のコンコースのいたる所(ベンチの下など)で、床に横たわり爆睡中の人々を見かけた。せいぜい紙か布を一枚敷く程度で、直に寝ている人も多い。南アジア系やアフリカ系だろうか、明らかに外国人の、しかも富裕ではない層で、とにかくくたびれている様子。最初は乗り継ぎの時間待ちなのかと思ったが、どうもそれだけではないようだ。推定であるが、出稼ぎの人々だと見た。
9時間待ちはさすがに長く、同行の仲間はバーやカフェなどを転々としながらぐったりだが、自分は、とっくに終わらせてるはずの学館の原稿のフィニッシュが間に合わず、機内でイントロを書いたり、ネットがつながらないので、手書きでリライトしてFAXしたり、結構忙しかった。キンコーズみたいな店(国際電話、FAX、ネット)でFAXを出したら2000円分とられて少しショック。何度も出入りしたので、口ひげの親父とお互い顔を覚えてしまった。
そうこうするうち、ようやくヨルダン行きの便が来た。今度は窓際なので、外がよく見える。
離陸後、ドバイ沖に妙な形の島が見えたが、どうも人口島らしい。原油の枯渇が迫っているので、観光にシフトしようと、王子がいろいろ事業を展開しているらしい。この島もその一環なんだろう。
しばらくするとアラビア半島横断で、ひたすら砂漠。たまに幹線道路や灌漑施設が見えるが、なんとも厳しそうな環境。ヨルダンに近づいても緑は見えない。枯れ川の筋のあとが圧巻だった。行く筋も、無数の狂った大蛇がうねったような、不気味な渦巻き(唐草?)模様。
アンマンの空港に接近し、高度が下がりだして、初めて牧場など、人間の営為が目に入る。アンマンの空港は、ドバイなどと比べると、ローカル感満点。改装前の那覇空港の雰囲気を思い出した。
表に出ると、アメ車が停まっていた。しかも結構古い型だ。いきなり親米国の証しか?
高原の街・アンマン断章
アンマンは標高700mくらいの高原にあり、湿気も無く、夜は涼しく、過ごしやすそう。平らな高原に刻まれた狭い谷間に形成された旧市街を中心に、周辺の高台を新市街がとりまく。都心部は数十万人規模でもエリア全体では300万人台の人口というから、水源、排水、ゴミなど、どうなってるのか不思議だ。
夜、ピースボートのスタッフとモノノケのメンバーとで旧市街に繰り出してみた。みやげ物屋、飲食店が賑やかにひしめく繁華街。適当に入ったレストランで、みんなで水パイプにはまった。香辛料の甘い香りなどが特徴で、吸い込みすぎて翌朝頭痛になる者も(某ボーカリストとか)。他の客は水パイプとお茶で談笑していて、あまり食事の客はいない。突然、大量の食事を注文されて店もあわてた様子だが、ちゃんとどこからか、料理が現れた。メインは羊や鶏だが、豆料理(なんでもペーストにする)が美味くてはまった。機内食のあとなので、みんな食べる食べる。それでも山のように余るほどの量。客が残す程もてなす、というのが、こちらの習慣のようだ。
何百年も続く旧市街の中心部といった賑やかさが印象的。歴史の連続性を感じる。もちろんモスクもある。モスクの緑のネオンと月の取り合わせが綺麗だ。その近くには、有名なローマ時代の円形劇場の遺跡もあって、公園になっている。結構遅くまで家族連れや若い衆が出歩いて、涼しい夜の街を楽しんでいた。女の子もたくさん見かけた。人々の表情からは、経済的にそこそこやっていけてるような安定感がうかがえる。
ただし、それは対米、対イスラエルなどとの関係において、先王以来積み重ねてきた、アラブ国としては滅茶苦茶アクロバティックな外交政策によるものだろうから、とても微妙なバランスで成り立っている脆いものなのかもしれない。
ドバイ空港は凄い、と聞かされていたので驚きというほどではなかったが、さすが金満産油国UAEご自慢の空港ということはある。国の規模は小さいが、資金に物を言わせて造った、おそらくはアラビア半島最大の空の玄関なのだろう。
タックスフリー売場の賑わいと品揃え(ベンツの車まで陳列してある)や、いろんな民族衣装の人々がひっきりなしに行き交うようすなど、まさに諸国民の十字路。空港自体が一大マーケットのよう。例えが悪いが、閑古鳥の関空などとくらべると大変な差だ。アラビア半島のみならず、南アジアからアフリカまで、広大なエリアをカバーする拠点空港となっていることを実感した。
ところで、この“市場”では、労働力も出入りが活発なようだ。空港のコンコースのいたる所(ベンチの下など)で、床に横たわり爆睡中の人々を見かけた。せいぜい紙か布を一枚敷く程度で、直に寝ている人も多い。南アジア系やアフリカ系だろうか、明らかに外国人の、しかも富裕ではない層で、とにかくくたびれている様子。最初は乗り継ぎの時間待ちなのかと思ったが、どうもそれだけではないようだ。推定であるが、出稼ぎの人々だと見た。
9時間待ちはさすがに長く、同行の仲間はバーやカフェなどを転々としながらぐったりだが、自分は、とっくに終わらせてるはずの学館の原稿のフィニッシュが間に合わず、機内でイントロを書いたり、ネットがつながらないので、手書きでリライトしてFAXしたり、結構忙しかった。キンコーズみたいな店(国際電話、FAX、ネット)でFAXを出したら2000円分とられて少しショック。何度も出入りしたので、口ひげの親父とお互い顔を覚えてしまった。
そうこうするうち、ようやくヨルダン行きの便が来た。今度は窓際なので、外がよく見える。
離陸後、ドバイ沖に妙な形の島が見えたが、どうも人口島らしい。原油の枯渇が迫っているので、観光にシフトしようと、王子がいろいろ事業を展開しているらしい。この島もその一環なんだろう。
しばらくするとアラビア半島横断で、ひたすら砂漠。たまに幹線道路や灌漑施設が見えるが、なんとも厳しそうな環境。ヨルダンに近づいても緑は見えない。枯れ川の筋のあとが圧巻だった。行く筋も、無数の狂った大蛇がうねったような、不気味な渦巻き(唐草?)模様。
アンマンの空港に接近し、高度が下がりだして、初めて牧場など、人間の営為が目に入る。アンマンの空港は、ドバイなどと比べると、ローカル感満点。改装前の那覇空港の雰囲気を思い出した。
表に出ると、アメ車が停まっていた。しかも結構古い型だ。いきなり親米国の証しか?
高原の街・アンマン断章
アンマンは標高700mくらいの高原にあり、湿気も無く、夜は涼しく、過ごしやすそう。平らな高原に刻まれた狭い谷間に形成された旧市街を中心に、周辺の高台を新市街がとりまく。都心部は数十万人規模でもエリア全体では300万人台の人口というから、水源、排水、ゴミなど、どうなってるのか不思議だ。
夜、ピースボートのスタッフとモノノケのメンバーとで旧市街に繰り出してみた。みやげ物屋、飲食店が賑やかにひしめく繁華街。適当に入ったレストランで、みんなで水パイプにはまった。香辛料の甘い香りなどが特徴で、吸い込みすぎて翌朝頭痛になる者も(某ボーカリストとか)。他の客は水パイプとお茶で談笑していて、あまり食事の客はいない。突然、大量の食事を注文されて店もあわてた様子だが、ちゃんとどこからか、料理が現れた。メインは羊や鶏だが、豆料理(なんでもペーストにする)が美味くてはまった。機内食のあとなので、みんな食べる食べる。それでも山のように余るほどの量。客が残す程もてなす、というのが、こちらの習慣のようだ。
何百年も続く旧市街の中心部といった賑やかさが印象的。歴史の連続性を感じる。もちろんモスクもある。モスクの緑のネオンと月の取り合わせが綺麗だ。その近くには、有名なローマ時代の円形劇場の遺跡もあって、公園になっている。結構遅くまで家族連れや若い衆が出歩いて、涼しい夜の街を楽しんでいた。女の子もたくさん見かけた。人々の表情からは、経済的にそこそこやっていけてるような安定感がうかがえる。
ただし、それは対米、対イスラエルなどとの関係において、先王以来積み重ねてきた、アラブ国としては滅茶苦茶アクロバティックな外交政策によるものだろうから、とても微妙なバランスで成り立っている脆いものなのかもしれない。
[link:16] 2005年08月25日(木) 04:53
2005年07月13日(水)スクラップ記事
しばらくぶりに新聞をまとめて読み、気になった記事がいくつか。
●<筑波大五十嵐助教授殺害>「悪魔の詩」翻訳者刺殺、時効まで1年(毎日 9日)
http://www.excite.co.jp/News/society/20050709150000/20050709E40.067.html
●「家なき若者」が集う安宿続々 都心で1泊1480円」(11日・朝日)
http://www.asahi.com/job/news/TKY200507110028.html
http://www.restbox.net/pc/index.html
※すごいことになってる!
●「すしチェーン社長逮捕 密入国外国人ら雇用」(12日・東京)
「日本人は長続きしないので、一九九八年ごろから口コミで外国人を集めていた。ま
じめな人なら在留資格は問わなかった」
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sya/20050712/eve_____sya_____001.shtml
※社長ら10人逮捕(外国人とは別に)…、とは見せしめ大弾圧なのだろう。
●<筑波大五十嵐助教授殺害>「悪魔の詩」翻訳者刺殺、時効まで1年(毎日 9日)
http://www.excite.co.jp/News/society/20050709150000/20050709E40.067.html
●「家なき若者」が集う安宿続々 都心で1泊1480円」(11日・朝日)
http://www.asahi.com/job/news/TKY200507110028.html
http://www.restbox.net/pc/index.html
※すごいことになってる!
●「すしチェーン社長逮捕 密入国外国人ら雇用」(12日・東京)
「日本人は長続きしないので、一九九八年ごろから口コミで外国人を集めていた。ま
じめな人なら在留資格は問わなかった」
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sya/20050712/eve_____sya_____001.shtml
※社長ら10人逮捕(外国人とは別に)…、とは見せしめ大弾圧なのだろう。
[link:13] 2005年07月13日(水) 04:12
2005年08月20日(土)旧友との新鮮な夜
昨日は早稲田の老舗ロックバー「JerryJeff」にて、服部夏樹(g)とデュオ。
旧知のベーシスト、西村卓也氏からのお誘いで、西村さんのソロも拝見。
相変わらすというか、ますますあやしく面白い。
そして全部、ベースと歌の引き語り!
最後にアコギに持ち替えて、英語の歌があった。
何だかオリジナルを聞いたことがあるような気がしたが、
あとで聞いたら、Pフロイド・原始心母の曲だった!
服部氏とのデュオも、無事終了したが、個人的には服部曲が懐かしくも新鮮な響きで楽しめた。
それにしても、西村氏も服部氏もいい曲書くのに、聞かれる機会がほとんど無いのは人類史的に、もったいない!!!
旧知のベーシスト、西村卓也氏からのお誘いで、西村さんのソロも拝見。
相変わらすというか、ますますあやしく面白い。
そして全部、ベースと歌の引き語り!
最後にアコギに持ち替えて、英語の歌があった。
何だかオリジナルを聞いたことがあるような気がしたが、
あとで聞いたら、Pフロイド・原始心母の曲だった!
服部氏とのデュオも、無事終了したが、個人的には服部曲が懐かしくも新鮮な響きで楽しめた。
それにしても、西村氏も服部氏もいい曲書くのに、聞かれる機会がほとんど無いのは人類史的に、もったいない!!!
[link:18] 2005年08月25日(木) 04:57
2005年08月22日(月)今月の満月はなかなかのものだった
KUMA ROCK FESTIVAL 05 は興行的には惨敗だったが、内容は面白かったので、こりずにそのうちリベンジしようと思う。
ところで、先日リハで高円寺の老舗練習スタジオPALに行った。
ここの社長が先月亡くなり、2階で線香をあげられると聞いていたので、それを兼ねての訪問だった。
PAL社長のことはシカラムータ10周年パンフのあとがきにチラと書いたが、お囃子やチンドンに理解があり、最初のリハで背中を押してもらったという個人的恩義がある。
日劇の音響チーフ(細かい肩書きは分からないが)や某メジャーレーベルの技術スタッフを経て、手づくりで始められたのがPAL。高円寺のスタジオの走りだったそうだ。近辺でも荻窪の最初のスタジオとほぼ同時だったというから、中央線沿線のリハスタの本当の走りなのだろう。
何年か、ガンの闘病生活を送られ、ずっと本人は治すつもりだったようだが、惜しくも先月他界された。
僕も、10年前ころ、何度かお会いしただけだが、日劇の話や、ベテランの技術者としての話をうかがいたいと思っていたので残念でならない。去年、病床で退屈していると聞いて、演芸のCDをコピーして進呈したらとても喜ばれていたそうで、遠慮せず見舞いに行きべきだった。
ご家族とお話した折、社長を偲ぶライブでも開きたいが、どうしたものやら分からない、自分になら頼めるだろうか、と微妙に打診された。
一人ではできないが、う〜む。何かはやっておきたいなあ。
帰り道、ほとんど丸い月が、応援を約束してくれたような気がする。
ところで、先日リハで高円寺の老舗練習スタジオPALに行った。
ここの社長が先月亡くなり、2階で線香をあげられると聞いていたので、それを兼ねての訪問だった。
PAL社長のことはシカラムータ10周年パンフのあとがきにチラと書いたが、お囃子やチンドンに理解があり、最初のリハで背中を押してもらったという個人的恩義がある。
日劇の音響チーフ(細かい肩書きは分からないが)や某メジャーレーベルの技術スタッフを経て、手づくりで始められたのがPAL。高円寺のスタジオの走りだったそうだ。近辺でも荻窪の最初のスタジオとほぼ同時だったというから、中央線沿線のリハスタの本当の走りなのだろう。
何年か、ガンの闘病生活を送られ、ずっと本人は治すつもりだったようだが、惜しくも先月他界された。
僕も、10年前ころ、何度かお会いしただけだが、日劇の話や、ベテランの技術者としての話をうかがいたいと思っていたので残念でならない。去年、病床で退屈していると聞いて、演芸のCDをコピーして進呈したらとても喜ばれていたそうで、遠慮せず見舞いに行きべきだった。
ご家族とお話した折、社長を偲ぶライブでも開きたいが、どうしたものやら分からない、自分になら頼めるだろうか、と微妙に打診された。
一人ではできないが、う〜む。何かはやっておきたいなあ。
帰り道、ほとんど丸い月が、応援を約束してくれたような気がする。
[link:17] 2005年08月25日(木) 04:56
夕方羽田発関空経由ドバイへ。飛行機はJALと提携しているエミレーツ便。
関空まではJALのそれこそ通勤バスのようなエアバスだが、関空からは機体もエミレーツ航空。女性乗務員が帽子にベールをあしらっていてそれっぽい。最近の旅行通のあいだでは制服や機内サービスなどで人気を呼んでいるらしい。ちなみに「エミレーツ」とは「首長国」。「UAE」の「E」だ。機内食はまあまあ、だが機内ラジオのソフトの充実振りには驚いた。
アラブ圏の音楽は言うに及ばず、南アジア圏(ヒンズー語圏と、ウルドゥー語圏=パキスタン)、東南アジア(タイ、フィリピン)、中国語圏、そして日本など、さまざまなエリアの音楽をカバーしている。
タイ、フィリピン、広東語、日本の各チャンネルは耳障りなペラペラしたポップスのみだが、アラブ圏と南アジア圏はクラブっぽいビート音楽と、どっしりした伝統音楽の複数チャンネルを揃えている。メインの客筋のエリアなのだろう。また当然コーランのチャンネルもある。僕も「アラブポップス永遠のビッグスター10人」みたいなチャンネルで、シェブ・ハリドやフェイルーズ、ウマム・クルスームなどを堪能した。この、それぞれがベストヒットみたいな独立したチャンネルがあるのだ。(なかでもフェイルーズはどの曲も最高!早死にして残念!帰路はウルドゥーチャンネルでヌスラット・ファテ・アリ・カーンのカッワーリーを子守唄に…。)
それから、洋楽の品揃えも半端じゃない。実はこちらのほうが驚かされた。50年代から1年ごとにベスト10(たしかNME誌選定)がすべて聴けるし、アーティスト別のベストセレクトと、それとは別に著名アルバムも、それぞれ100タイトル以上ある。
10CC(大ヒットを出した分裂後ではなくオリジナルメンバーによる前期のセレクト)だとか、ベルベットアンダーグラウンドなど、かなり通好みのアーティストもとりあげられていた。
かなり年季の入ったロックファンでも何度乗っても退屈しなさそうだ。欧米人向けのセレクトなのか、オイルマネーでロックファンが増えているのか、よく分からないが、僕も、あの曲、この曲、とついつい聴き続けてしまった。