2006年05月05日(金)駒場の博物館〜下北沢へ、ぶらぶら歩き
[link:31] 2006年05月11日(木) 02:11
2006年07月01日(土)「下北沢・再開発問題をめぐる2,3の事柄」
(planB通信7月号の「当世音楽解体新書」DeMusik inter.に書いたモノ)
まず個人的な話から始めていこう。
80年代の前半だから、もう20年以上前になるが、当時風前の灯となっていた、東京のチンドン界に、1人のサックス吹きが遭遇、たちまち魅入られて、その後のチンドン・リバイバルの、(少なくとも東京での)発端となった、その舞台が下北沢(シモキタ)だった。そこで、そのサックス吹き、すなわち若き日の篠田昌已が、どこか怪しげな、しかし不思議な魅力の楽隊と偶然出会っていなければ、この自分も、クラリネットを始めたり、チンドンの世界に触れることもなかった可能性が大きい。そういうこともあり、自分にとって、シモキタとは、異質なモノ同士の出会い、意外な出会いが待っているはずの街だ。
下北沢…。それは沢と名のつくことから明らかなように、もとは丘陵の間の小さな谷だった。井の頭線の堰堤を眺めてみよう。あれが谷の断面図だといってもよい。そして、茶沢通沿いに、かつての小川の痕跡が歩道となって残っている。駅の北西部は、丘に向かう傾斜地なので、ゆるやかながら起伏に富んでいる。
狭苦しい商店街は、そこそこの歴史がありそうだが、戦後の一時期は、ピンクゾーンでも知られる街だった。そのピンク街のオーナーが、近隣のブーイングを受けて、出直したのが、いまの本多劇場だそうだ。
その後、渋谷、吉祥寺とともに、若者文化の波を受け、独特の雰囲気をもつ街として変遷。たしかに飲食店、衣料店、雑貨店のほか、CD・レコードショップ、ライブハウス、劇場、映画館などなど、どれもありきたりではないこだわりを持ったスポットが多い。
そんな下北沢が再開発計画に揺れている、という話はすでに耳にされた方も多いと思う。小田急の地下化工事にともなって、巨大な幹線道路(補助54号線)を新設し、北口に駅前広場をつくり、高層集合住宅・店舗をつくる、という大規模再開発の計画が発表され、それに対し、「シモキタの街が壊される」と危機意識をもった人々が、反対運動を展開している。
もっとも、商店会など元々の住民には、再開発推進・賛成の人々もいるし、たしかに駅周辺は、狭い道路と建て込んだ商店街で、いかにも災害に無防備そうだ。そりゃ消防車が入れない商店街は、なんとかしたほうがいいだろう。しかし、何でいきなり巨大道路なのか? 再開発は必要だと感じる地元民でも、補助54号線や、大規模ビルなどがセットになった計画は、戸惑いや困惑を感じる人も少なくないという。この幹線道路は、環七・環八並みに幅26mもあるもので、なんと60年も前に計画されたまま、長年忘れられていた代物だ。小子化、環境危機の時代に、なぜ?(もひとつあった。国の借金、今いくらだっけ?)
その不条理な計画の裏には隠れたカラクリがあるという。かんたんに言うと、一定以上の規模の計画であれば、特定道路財源という助成が国から交付されるという仕組みがあるのだ。巨大道路の存在は、助成金を交付するためだけにあるといっても過言ではないのではないか。
「区民の声を聞く区長」をいただき、「すぐやる課」を設置する世田谷区。しかし彼らは、この間、反対派の意見を一貫して無視しようとしてきた。何が何でも、異論には耳を貸さない、といった態度は、傍目にはなかなか理解しにくいものがあったが、そういうカラクリがあるならば、話は別だ。それは作る側には旨味のある、なんとしてもやり遂げなければならない話なのだろう。
「下北沢FORUM」、「Save the 下北沢」などの団体は、ただ反対と騒ぐのではなく、学者・専門家をまじえ、もっとましな再開発の代案があるのではないか、と提案もしてきたが、役人のプライドが傷つくのか、居丈高に拒絶するばかり。商店街などの賛成派(主に地権者たち)だけに、プランを伝えたことで、区民には説明義務を果たしてきたような振りをしてきた。これに対し、ライブハウスや飲食店など、「無視されてきた」個人商店主たちが立ち上がり、「54号線の見直しを求める下北沢商業者協議会」として反対運動に合流、精力的に活動をしている。
DeMusik inter. は「インパクション」152号の連載コーナー「闘走的音楽案内」で、「Save the 下北沢」で活動する“シンガーソング音楽ライター”志田歩と、若き社会学者・木村和穂を迎え、この問題について語ってもらった。珍しいことに(「インパクション」がマスメディアで言及されることは、滅多にないのだが)、この対談は朝日新聞(6.27夕刊)の「論壇時評」で「注目!今月の論考」のひとつとして言及されていた。
評者の鈴木謙介(社会学者)は、「地域と安全」というテーマで、他の論稿も挙げつつ「反対運動をよそ者が担うのは不当だ」という批判が、実は疑わしいのではないかと問う。「実際にそこに住んでいる人間だけが「シモキタ」という地域のブランドイメージを形成する主体ではないのだ」と。
そして、上記対談は「再開発にかかわる複雑な当事者関係を明らかにしつつ、「文化保護か地域の安全か」という対立構図は、マスメディアが作り上げたものだと批判する。地域開発を巡るステークホルダー(利害関係者)の範囲に関する議論は、今後も様々な場面で繰り返されるだろう。」と述べている。
少なくとも、これが個別の地域問題でありつつも、行政に対するオルタナティブ運動の、ひとつのユニバーサルな実験の場である、といえるだろう。
なお最近の動きを簡単に整理しておくと、3月の前年度内の着工手続きは見送られたものの、5月に入り、着工手続きの前段となる「説明会」を、区が一方的なスタンスで強行。会場は異議や話し合いを求める意見などで紛糾した。6月半ば、再三の要請に、ようやく区長ら区政幹部が、反対派と会見。
おかしなことに、区長は、対話の場を検討するとコメントしたが、区幹部は、「すでにその段階ではない」と拒否の姿勢を示し、その「あきれた不一致ぶり」は新聞でも報じられた。区長は、反対派の意見の内容を、ほとんど知らなかったという。国交省の意向を汲む区幹部と、飾りに過ぎない区長という分析がささやかれている。が、カタチだけでも、対話の場が公式に言及されたのだ。巨大再開発に素手で対抗する下北沢の運動は、いよいよ目の離せない展開となってきた。
(文中敬称略)
まず個人的な話から始めていこう。
80年代の前半だから、もう20年以上前になるが、当時風前の灯となっていた、東京のチンドン界に、1人のサックス吹きが遭遇、たちまち魅入られて、その後のチンドン・リバイバルの、(少なくとも東京での)発端となった、その舞台が下北沢(シモキタ)だった。そこで、そのサックス吹き、すなわち若き日の篠田昌已が、どこか怪しげな、しかし不思議な魅力の楽隊と偶然出会っていなければ、この自分も、クラリネットを始めたり、チンドンの世界に触れることもなかった可能性が大きい。そういうこともあり、自分にとって、シモキタとは、異質なモノ同士の出会い、意外な出会いが待っているはずの街だ。
下北沢…。それは沢と名のつくことから明らかなように、もとは丘陵の間の小さな谷だった。井の頭線の堰堤を眺めてみよう。あれが谷の断面図だといってもよい。そして、茶沢通沿いに、かつての小川の痕跡が歩道となって残っている。駅の北西部は、丘に向かう傾斜地なので、ゆるやかながら起伏に富んでいる。
狭苦しい商店街は、そこそこの歴史がありそうだが、戦後の一時期は、ピンクゾーンでも知られる街だった。そのピンク街のオーナーが、近隣のブーイングを受けて、出直したのが、いまの本多劇場だそうだ。
その後、渋谷、吉祥寺とともに、若者文化の波を受け、独特の雰囲気をもつ街として変遷。たしかに飲食店、衣料店、雑貨店のほか、CD・レコードショップ、ライブハウス、劇場、映画館などなど、どれもありきたりではないこだわりを持ったスポットが多い。
そんな下北沢が再開発計画に揺れている、という話はすでに耳にされた方も多いと思う。小田急の地下化工事にともなって、巨大な幹線道路(補助54号線)を新設し、北口に駅前広場をつくり、高層集合住宅・店舗をつくる、という大規模再開発の計画が発表され、それに対し、「シモキタの街が壊される」と危機意識をもった人々が、反対運動を展開している。
もっとも、商店会など元々の住民には、再開発推進・賛成の人々もいるし、たしかに駅周辺は、狭い道路と建て込んだ商店街で、いかにも災害に無防備そうだ。そりゃ消防車が入れない商店街は、なんとかしたほうがいいだろう。しかし、何でいきなり巨大道路なのか? 再開発は必要だと感じる地元民でも、補助54号線や、大規模ビルなどがセットになった計画は、戸惑いや困惑を感じる人も少なくないという。この幹線道路は、環七・環八並みに幅26mもあるもので、なんと60年も前に計画されたまま、長年忘れられていた代物だ。小子化、環境危機の時代に、なぜ?(もひとつあった。国の借金、今いくらだっけ?)
その不条理な計画の裏には隠れたカラクリがあるという。かんたんに言うと、一定以上の規模の計画であれば、特定道路財源という助成が国から交付されるという仕組みがあるのだ。巨大道路の存在は、助成金を交付するためだけにあるといっても過言ではないのではないか。
「区民の声を聞く区長」をいただき、「すぐやる課」を設置する世田谷区。しかし彼らは、この間、反対派の意見を一貫して無視しようとしてきた。何が何でも、異論には耳を貸さない、といった態度は、傍目にはなかなか理解しにくいものがあったが、そういうカラクリがあるならば、話は別だ。それは作る側には旨味のある、なんとしてもやり遂げなければならない話なのだろう。
「下北沢FORUM」、「Save the 下北沢」などの団体は、ただ反対と騒ぐのではなく、学者・専門家をまじえ、もっとましな再開発の代案があるのではないか、と提案もしてきたが、役人のプライドが傷つくのか、居丈高に拒絶するばかり。商店街などの賛成派(主に地権者たち)だけに、プランを伝えたことで、区民には説明義務を果たしてきたような振りをしてきた。これに対し、ライブハウスや飲食店など、「無視されてきた」個人商店主たちが立ち上がり、「54号線の見直しを求める下北沢商業者協議会」として反対運動に合流、精力的に活動をしている。
DeMusik inter. は「インパクション」152号の連載コーナー「闘走的音楽案内」で、「Save the 下北沢」で活動する“シンガーソング音楽ライター”志田歩と、若き社会学者・木村和穂を迎え、この問題について語ってもらった。珍しいことに(「インパクション」がマスメディアで言及されることは、滅多にないのだが)、この対談は朝日新聞(6.27夕刊)の「論壇時評」で「注目!今月の論考」のひとつとして言及されていた。
評者の鈴木謙介(社会学者)は、「地域と安全」というテーマで、他の論稿も挙げつつ「反対運動をよそ者が担うのは不当だ」という批判が、実は疑わしいのではないかと問う。「実際にそこに住んでいる人間だけが「シモキタ」という地域のブランドイメージを形成する主体ではないのだ」と。
そして、上記対談は「再開発にかかわる複雑な当事者関係を明らかにしつつ、「文化保護か地域の安全か」という対立構図は、マスメディアが作り上げたものだと批判する。地域開発を巡るステークホルダー(利害関係者)の範囲に関する議論は、今後も様々な場面で繰り返されるだろう。」と述べている。
少なくとも、これが個別の地域問題でありつつも、行政に対するオルタナティブ運動の、ひとつのユニバーサルな実験の場である、といえるだろう。
なお最近の動きを簡単に整理しておくと、3月の前年度内の着工手続きは見送られたものの、5月に入り、着工手続きの前段となる「説明会」を、区が一方的なスタンスで強行。会場は異議や話し合いを求める意見などで紛糾した。6月半ば、再三の要請に、ようやく区長ら区政幹部が、反対派と会見。
おかしなことに、区長は、対話の場を検討するとコメントしたが、区幹部は、「すでにその段階ではない」と拒否の姿勢を示し、その「あきれた不一致ぶり」は新聞でも報じられた。区長は、反対派の意見の内容を、ほとんど知らなかったという。国交省の意向を汲む区幹部と、飾りに過ぎない区長という分析がささやかれている。が、カタチだけでも、対話の場が公式に言及されたのだ。巨大再開発に素手で対抗する下北沢の運動は、いよいよ目の離せない展開となってきた。
(文中敬称略)
[link:32] 2006年07月01日(土) 10:28
2006年11月04日(土)9月「態変」テント公演「ラ・パルティーダ」参加リポート
※以下はplanB通信11月号に書いた<当世音楽解体新書>第11回「続・右往左往の記」を若干手直ししたものです。
9月の下旬、大阪は梅田に近い扇町公園で、劇団「態変」(※)のテント公演「ラ・パルティーダ」に参加してきた。
(※)主宰・金満里の「身体障害者の障害じたいを表現力に転じ、未踏の美を創り出すことができる」という着想に基づき、身障者自身が演出し、演じる劇団として1983年より大阪を拠点に活動を続けている。(「態変」HPより)
「態変」は金満里をはじめ、役者全員が身体に重いハンディーをもつ。彼女のように車椅子で日常生活を送る人も多いし、なかには、ほとんど身動きできない寝たきりの人もいる。寝たきりで一体何が出来るんだ? 知らない人は、そんな疑問を持つかもしれない。しかし、普通の意味、いや健常者の感覚では一見無力と思えるような、そんな役者が、態変の舞台ではインパクト大なのだ。
あっけらかんと全てをありのままに。そんな風に、全員レオタード姿で、体の輪郭を舞台に晒すのが「態変」のスタイルだ。それは「弱者」として同情を買おうというのでは勿論なく、また「虐げられた者の声を聞け」と突きつけるのでもない。しかし、強い、弱い、ではない個別性を突き詰めることで、彼女らの舞台は有無を言わせず突き抜けた磁場となる。
さて、今回の公演は「ラ・パルティーダ」。その名の通り、1973年に虐殺されたチリの歌い手、ビクトル・ハラとその時代を題材とし、近頃ありえないようなパフォーマンスとなった。
ビクトルは、チリの民主化運動のシンボル的なシンガーソングライターで、当時民主化運動とともに盛んになった「ヌエバ・カンシオン(「新しい歌」運動)」の旗手だった。70年、チリでは世界初の選挙で選ばれた社会主義政権が誕生したが、アメリカの肝いりの軍事クーデターで潰された。アメリカ系の財閥が押さえていた鉱山の利権を失うことを恐れたからだという。
(ちなみに、チリの軍事クーデターは73年の9・11。歴史は繰り返していた!)
政庁に立てこもったアジェンデ大統領は空爆の末、抹殺。民主化のシンボル的存在だったビクトルも、数千の民衆とともに虐殺。収容されたスタジアムで、最後まで歌で抵抗し、仲間を鼓舞したので、二度とギターが弾けないよう手を砕かれた挙句、風穴だらけに射殺されたのだ。
このような、強烈な悲劇の主人公なので、彼を語ること自体が「政治的」として敬遠されたり、逆にまた、政治主義的な「語られ方」もあっただろう。そのためか、日本の某音楽雑誌では、民謡歌手やポピュラー歌手と比較すれば、ビクトルなんぞ本物ではない、悲劇のヒーローとして過大評価されている、というような難癖が付けられたりもした。好みはそれぞれあるだろう。また、悲劇の伝説とリンクして語られるのは仕方ない。ビクトルが、その夢を託した時代に、彼のすべてを捧げたのだから。彼の歌と、その時代は、切っても切り離すことができない。しかしまた、多くのビクトル・ファンは、その美しい旋律、歌声、それ自体に感動してきた。目的先行の言葉ではなく、声や音の力で、人々の支持を集めた。だからこそ、長く歌い継がれ、今回の公演にもつながっているといえる。
今回の公演で、音楽も即席の楽団(※)による生演奏だったが、ひとつのポイントは、歌手・八木啓代の参加だ。
(※ 筆者のほか、広島のライブハウス「OTIS!」のマスター佐伯雅啓を中心に、二胡やダブル・ディジェリドゥーなど、なかなかユニークな編成だった。)
八木は、スペイン語歌謡の専門家で、ビクトルやラテンアメリカの事情に造詣の深い事で知られる。近年はむしろ著作家として活躍しているようだが、初の著書も、まさにビクトルとその時代に迫った「禁じられた歌」(1990年)だった。そのこともあり、ビクトルの歌なら、さぞ手慣れたレパートリーなのだろうと思い込んでいた。しかし、世の中そんなに単純ではなかった。むしろ、思いの強いビクトルの歌であるからこそ、彼女は自身のレパートリーとはしてこなかったのだ。今回、何曲ものビクトルナンバーを力強く歌い上げた八木だが、事実上それは初めてのことだったという。これは正直、驚きだった。それだけ彼女の歌には、彼女ならではというべき「背骨」の確かさを感じさせていたからだ。
また「態変」の役者も、それぞれの力強さでビクトルの歌の世界に迫り、公演ごとにテントは大きな感動で包まれた。告白するなら、事前には、ぶっきらぼうなアジ演劇に陥らないよう、どう持っていくのか(それならそれで、近頃珍しい見ものではあるが)、と半信半疑だったのだ。
しかし、そこはセリフのない芝居でもあり、役者の身体の存在感に、すべては持っていかれた。それこそ、金満里らの、「不自由」な身体ゆえの、別な発想…、怒りや悲しみ、そしてそれを超えようとする希望や夢、それらがそうさせたのだろう。そして、大きな意味で、それは、ビクトルの歌声や旋律と共振するものだったと言ってよいだろう。
ふたつの付け足し。まずは良い方から。八木は、最終日の打ち上げで一本のワインを持参、一同に振舞った。これは16年前、彼女が、チリの軍政が終わり、民主化を遂げた直後、サンチャゴでスラム街を慰問公演に訪れた際、ギャラ代わりに渡されたものだった。その公演は右翼に襲われ銃撃されかけたが、住民が体を張って事なきを得たという。そんな貴重なワインなので、八木は、封を切ることなく、ずっと大阪の実家にとっておいたのだが、今回の公演で、今こそ封を切るとき、と思い立ったのだ。開ける前は、「酢」になってないか、煙が出てこないか、と大騒ぎしながらの乾杯だったが、濃厚な熟成ぶりに、一同はさらなる感動に包まれた。それは、大阪のテントと、サンチャゴの、ビクトルの余韻が残る空気とがつながった一瞬だった。
最後に、面白くない方の話も。会場となった扇町公園は、公演の直前まで、野宿者たちの緊急用の拠点テントがあったのだが、それらが強制排除となったばかりだったのだ。それは野宿者を追い出した直後の野外劇フェスティバルでもあったというのだ。もちろん、それは、劇団の範疇というよりは、もっと大きなイベントを口実に行われた行政の、ひいては社会全体の問題であるにせよ、不可視化される都市の貧困と、それを可視化して向き合おうとする舞台の、微妙なすれ違いであったと言わなければならない。(文中敬称略)
9月の下旬、大阪は梅田に近い扇町公園で、劇団「態変」(※)のテント公演「ラ・パルティーダ」に参加してきた。
(※)主宰・金満里の「身体障害者の障害じたいを表現力に転じ、未踏の美を創り出すことができる」という着想に基づき、身障者自身が演出し、演じる劇団として1983年より大阪を拠点に活動を続けている。(「態変」HPより)
「態変」は金満里をはじめ、役者全員が身体に重いハンディーをもつ。彼女のように車椅子で日常生活を送る人も多いし、なかには、ほとんど身動きできない寝たきりの人もいる。寝たきりで一体何が出来るんだ? 知らない人は、そんな疑問を持つかもしれない。しかし、普通の意味、いや健常者の感覚では一見無力と思えるような、そんな役者が、態変の舞台ではインパクト大なのだ。
あっけらかんと全てをありのままに。そんな風に、全員レオタード姿で、体の輪郭を舞台に晒すのが「態変」のスタイルだ。それは「弱者」として同情を買おうというのでは勿論なく、また「虐げられた者の声を聞け」と突きつけるのでもない。しかし、強い、弱い、ではない個別性を突き詰めることで、彼女らの舞台は有無を言わせず突き抜けた磁場となる。
さて、今回の公演は「ラ・パルティーダ」。その名の通り、1973年に虐殺されたチリの歌い手、ビクトル・ハラとその時代を題材とし、近頃ありえないようなパフォーマンスとなった。
ビクトルは、チリの民主化運動のシンボル的なシンガーソングライターで、当時民主化運動とともに盛んになった「ヌエバ・カンシオン(「新しい歌」運動)」の旗手だった。70年、チリでは世界初の選挙で選ばれた社会主義政権が誕生したが、アメリカの肝いりの軍事クーデターで潰された。アメリカ系の財閥が押さえていた鉱山の利権を失うことを恐れたからだという。
(ちなみに、チリの軍事クーデターは73年の9・11。歴史は繰り返していた!)
政庁に立てこもったアジェンデ大統領は空爆の末、抹殺。民主化のシンボル的存在だったビクトルも、数千の民衆とともに虐殺。収容されたスタジアムで、最後まで歌で抵抗し、仲間を鼓舞したので、二度とギターが弾けないよう手を砕かれた挙句、風穴だらけに射殺されたのだ。
このような、強烈な悲劇の主人公なので、彼を語ること自体が「政治的」として敬遠されたり、逆にまた、政治主義的な「語られ方」もあっただろう。そのためか、日本の某音楽雑誌では、民謡歌手やポピュラー歌手と比較すれば、ビクトルなんぞ本物ではない、悲劇のヒーローとして過大評価されている、というような難癖が付けられたりもした。好みはそれぞれあるだろう。また、悲劇の伝説とリンクして語られるのは仕方ない。ビクトルが、その夢を託した時代に、彼のすべてを捧げたのだから。彼の歌と、その時代は、切っても切り離すことができない。しかしまた、多くのビクトル・ファンは、その美しい旋律、歌声、それ自体に感動してきた。目的先行の言葉ではなく、声や音の力で、人々の支持を集めた。だからこそ、長く歌い継がれ、今回の公演にもつながっているといえる。
今回の公演で、音楽も即席の楽団(※)による生演奏だったが、ひとつのポイントは、歌手・八木啓代の参加だ。
(※ 筆者のほか、広島のライブハウス「OTIS!」のマスター佐伯雅啓を中心に、二胡やダブル・ディジェリドゥーなど、なかなかユニークな編成だった。)
八木は、スペイン語歌謡の専門家で、ビクトルやラテンアメリカの事情に造詣の深い事で知られる。近年はむしろ著作家として活躍しているようだが、初の著書も、まさにビクトルとその時代に迫った「禁じられた歌」(1990年)だった。そのこともあり、ビクトルの歌なら、さぞ手慣れたレパートリーなのだろうと思い込んでいた。しかし、世の中そんなに単純ではなかった。むしろ、思いの強いビクトルの歌であるからこそ、彼女は自身のレパートリーとはしてこなかったのだ。今回、何曲ものビクトルナンバーを力強く歌い上げた八木だが、事実上それは初めてのことだったという。これは正直、驚きだった。それだけ彼女の歌には、彼女ならではというべき「背骨」の確かさを感じさせていたからだ。
また「態変」の役者も、それぞれの力強さでビクトルの歌の世界に迫り、公演ごとにテントは大きな感動で包まれた。告白するなら、事前には、ぶっきらぼうなアジ演劇に陥らないよう、どう持っていくのか(それならそれで、近頃珍しい見ものではあるが)、と半信半疑だったのだ。
しかし、そこはセリフのない芝居でもあり、役者の身体の存在感に、すべては持っていかれた。それこそ、金満里らの、「不自由」な身体ゆえの、別な発想…、怒りや悲しみ、そしてそれを超えようとする希望や夢、それらがそうさせたのだろう。そして、大きな意味で、それは、ビクトルの歌声や旋律と共振するものだったと言ってよいだろう。
ふたつの付け足し。まずは良い方から。八木は、最終日の打ち上げで一本のワインを持参、一同に振舞った。これは16年前、彼女が、チリの軍政が終わり、民主化を遂げた直後、サンチャゴでスラム街を慰問公演に訪れた際、ギャラ代わりに渡されたものだった。その公演は右翼に襲われ銃撃されかけたが、住民が体を張って事なきを得たという。そんな貴重なワインなので、八木は、封を切ることなく、ずっと大阪の実家にとっておいたのだが、今回の公演で、今こそ封を切るとき、と思い立ったのだ。開ける前は、「酢」になってないか、煙が出てこないか、と大騒ぎしながらの乾杯だったが、濃厚な熟成ぶりに、一同はさらなる感動に包まれた。それは、大阪のテントと、サンチャゴの、ビクトルの余韻が残る空気とがつながった一瞬だった。
最後に、面白くない方の話も。会場となった扇町公園は、公演の直前まで、野宿者たちの緊急用の拠点テントがあったのだが、それらが強制排除となったばかりだったのだ。それは野宿者を追い出した直後の野外劇フェスティバルでもあったというのだ。もちろん、それは、劇団の範疇というよりは、もっと大きなイベントを口実に行われた行政の、ひいては社会全体の問題であるにせよ、不可視化される都市の貧困と、それを可視化して向き合おうとする舞台の、微妙なすれ違いであったと言わなければならない。(文中敬称略)
[link:33] 2006年11月04日(土) 07:27
2007年01月01日(月)当世音楽解体新書 0701
★当世音楽解体新書 (planB通信07年1月号より)
「当世『レイバーソング』考」
「労働歌」というと、どんなイメージがあるだろう? 大方にとっては時代遅れの骨董品というところではないだろうか。
しかし、労働も、歌も、時代と共に姿かたちは変えつつも、僕らの生活の大きな要素であり続けている。ところが、世の中に流通する圧倒的多数の歌・音楽は、労働について歌ったり、考えたりするのではなく、いかに、余暇を楽しむか、つまり労働の再生産にひたすら励むよう仕向けるものばかり。簡単に言えば、労働の現場と歌の現場は、体よく分断されてきたのではないか。
しかしまた、少数派であることをいとわなければ、他の可能性はいろいろと見えてくるだろう。これまでも、外国のワークソングの紹介や、国内「民謡」の仕事歌などが再発見されてきただろうし、実はマスメディアにのらないだけで、労働・仕事をめぐる意欲的で現在的な作品が、国内外で続々と現れている。(ヨーロッパ周辺や中南米で盛んなように見える=逆に言えば日本では見えにくい=のは各々の政治情勢もあるだろう)
さて本題。05年、06年と、年末に開催されたレイバーフェスタ(レイバーネット<注>主催)で、われわれDeMusik inter.に与えられた課題「レイバーソングDJ」は、その辺、どうなってるのか、…つまり今どきの労働歌、ないし労働にまつわる音楽、がどんな感じか、あらためて概観していくという試みだった。
レイバーフェスタとは、文字通り「労働者の文化祭」だが、いまどき、どんなに働かされていても、自分は「労働者」だと思ってる人は少数派かもしれない。「労働者」という漢語の響きはたしかに古臭いのかもしれない。(「労働」は明治時代の造語らしいが)それはともかく、労働への批評や、労働者としての意識がなくなって喜ぶのは政府・財界の方だ。ときあたかも、残業代なんか払ってたら、日本経済の足手まといということなのか、「ホワイトカラー・エグゼンプション」というよく分からない名前の法律で、労働者の一層の奴隷化が目論まれている。
そんなわけで「レイバーネット」の「レイバーフェスタ」。「労働」を当世風にカタカナにしただけなのか、あるいは、従来の「労働」概念ではこぼれてしまうような「仕事」「作業」といった部分にまで目配りしようとするのか。少なくとも、漢字の熟語では感じにくかった今の風をつかめるかも?という魂胆だろう。
(「労組関係者ならみんな知ってる、というか覚えているような歌ではなく、今のフリーター、無職者も含めた層にとっての新しい歌はないのか」というのが初めの注文だった)
やってみると、これがなかなか面白く、反響も予想以上だった。また、フェスタの限られた時間ではとても紹介しきれないし、07年は随時、特集を組んで、独立したイベントをやっていこう、という動きになりつつある。ここで、内容を詳細に紹介する余裕はないが、今回の曲目リストの抜粋をご紹介しておこう。
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●「ああわからない」 ソウルフラワー・モノノケ・サミット 『Deracine ChingDong』(XBCD-1012)より
不滅の大道演歌師・添田唖蝉坊による約100年前の歌が、モノノケ・サミット9年ぶりの新作でよみがえる。当時の歌詞が今も古びないのは何故だろう?
●「アスファルトをほりかえせ」 おーまきちまき 『月をみてる』(SAMP-21017)より
神戸の震災被災地や釜ヶ崎など、関西の現場の空気を良く知る歌い手。ここ数年、歌の輝きがぐいぐい増して要注目。
●「ある絵描きの歌」 寺尾紗穂 『愛し、日々』(IML-1003)より
新人・寺尾紗穂が、炊き出しで参加した山谷の「夏祭り」での出会いにインスピレーションを受けて作った歌。従来の運動系文化(?)にはまらない、あらたな感性の出現に乾杯!
● 「ゲットーの歌です(こんなんどうDeath?)feat.ViVi」 Shingo☆西成 『Welcome To Ghetto』(LIBCD-004)より
ディープ大阪・西成に生まれ育ったラッパー。「ゲットー」育ちならではの、しびれるクールネス。ここまでドスのきいた日本語(というかナニワ言葉)のラップがかつてあっただろうか?
●「Mr. Workaholic Man」 Mic Jack Production 『 Universal Truth』(IDMCD-007)より
札幌を拠点に活動するラッパー集団。リリック(言葉)に鋭い批評意識が満ちている。
●「Never Tire Of The Road」 Andy Irvine 『Rain On The Roof』(AK-1)より
アイリッシュ・フォーク・リバイバルの立役者、アンディー・アーバインは、アイルランドで最も敬意を集める音楽家の1人だが、今も吟遊詩人のスタンスを貫く。アンディーの原点が、北米プロテスト・フォークのウッディ・ガスリーへの敬意に発することを示す名曲。来日のステージでは、「Fascists bound to lose」のリフレインが「ファシストは滅ぶ」の大合唱となる。
●「Bush e bugiardo(ブッシュは嘘つき)」 Daniele Sepe und Rote jazz fraktion 『Una banda di pezzenti』(RTPE002)より
サックス奏者のダニエル・セペは南イタリア・ナポリの音楽シーンの顔役。国内南北問題に苦しんできたナポリの、地域の伝統音楽と、ロック、ジャズなどの実験的ミックスを継続し評価を集めている。近作では、汎地中海的なスタンスで、移民問題とリンクしながら、移民の音楽家たちともコラボレートしている。
ナポリで、30余年にわたり、労働者・農民と協働しながら音楽活動を展開してきた集団「e zezi」にも触れつつ、ヨーロッパ周縁における多文化・対抗文化のあり方について小特集を予定。
●「お富さん」 ソウルフラワー・モノノケ・サミット 『Deracine Ching Dong』より
作曲は、沖縄生まれ、奄美大島育ちの渡久地政信(とくち・まさのぶ)。1998年、新宿中央公園で開催されたホームレス支援の「第5回新宿夏まつり」で、事前アンケート中、ホームレス達から最もリクエストの多かった歌。以後、ソウルフラワー・モノノケ・サミットの重要なレパートリーとなった。
<選曲・構成> : 大熊ワタル、二木信、本山謙二 (DeMusik inter.)
<注>数年前、インターネットの普及を受けて、グローバリズムに抵抗する新しい横断的・参加型の労働運動の情報ネットワークとして、世界各国でレイバーネットが出現。それを受け、日本でも労働運動活動家、市民メディア関係者、労働運動研究者が集まり設立された、「労働運動の発展を願うすべての人に開かれたネ ットワークであり、個人の自律性・自主性によって運営される参加型の組織」(レイバーネットHPより)
<号外!>「オリコン、批判的ジャーナリストを高額訴訟」
元AERA記者で「J-POPとは何か」の著者・烏賀陽(うがや)弘道氏が、オリコンのチャートのあり方に批判的なコメントを雑誌に述べた、などとしてオリコンが同氏に5000万円の損倍提訴。コメントが載った媒体ではなくコメンテーター個人を訴えるのは、悪質な言論つぶしに他ならない。仮に同氏のオリコン批判が当たっていないとしても、まず訂正と謝罪を求めるのが筋ではないだろうか。
POPS業界は、家電、流通、メディアなどが利権を求めて絡み合った、不透明な部分が多いことは、大方の識者の意見が一致するところだ。
烏賀陽氏本人のブログなどで事実関係が分かるほか、ジャーナリスト津田大介氏のブログ「音楽配信メモ」が、資料的に充実している(第三者の業界関係者から拾ったコメント集は必読)。ぜひご注目いただきたい。
「当世『レイバーソング』考」
「労働歌」というと、どんなイメージがあるだろう? 大方にとっては時代遅れの骨董品というところではないだろうか。
しかし、労働も、歌も、時代と共に姿かたちは変えつつも、僕らの生活の大きな要素であり続けている。ところが、世の中に流通する圧倒的多数の歌・音楽は、労働について歌ったり、考えたりするのではなく、いかに、余暇を楽しむか、つまり労働の再生産にひたすら励むよう仕向けるものばかり。簡単に言えば、労働の現場と歌の現場は、体よく分断されてきたのではないか。
しかしまた、少数派であることをいとわなければ、他の可能性はいろいろと見えてくるだろう。これまでも、外国のワークソングの紹介や、国内「民謡」の仕事歌などが再発見されてきただろうし、実はマスメディアにのらないだけで、労働・仕事をめぐる意欲的で現在的な作品が、国内外で続々と現れている。(ヨーロッパ周辺や中南米で盛んなように見える=逆に言えば日本では見えにくい=のは各々の政治情勢もあるだろう)
さて本題。05年、06年と、年末に開催されたレイバーフェスタ(レイバーネット<注>主催)で、われわれDeMusik inter.に与えられた課題「レイバーソングDJ」は、その辺、どうなってるのか、…つまり今どきの労働歌、ないし労働にまつわる音楽、がどんな感じか、あらためて概観していくという試みだった。
レイバーフェスタとは、文字通り「労働者の文化祭」だが、いまどき、どんなに働かされていても、自分は「労働者」だと思ってる人は少数派かもしれない。「労働者」という漢語の響きはたしかに古臭いのかもしれない。(「労働」は明治時代の造語らしいが)それはともかく、労働への批評や、労働者としての意識がなくなって喜ぶのは政府・財界の方だ。ときあたかも、残業代なんか払ってたら、日本経済の足手まといということなのか、「ホワイトカラー・エグゼンプション」というよく分からない名前の法律で、労働者の一層の奴隷化が目論まれている。
そんなわけで「レイバーネット」の「レイバーフェスタ」。「労働」を当世風にカタカナにしただけなのか、あるいは、従来の「労働」概念ではこぼれてしまうような「仕事」「作業」といった部分にまで目配りしようとするのか。少なくとも、漢字の熟語では感じにくかった今の風をつかめるかも?という魂胆だろう。
(「労組関係者ならみんな知ってる、というか覚えているような歌ではなく、今のフリーター、無職者も含めた層にとっての新しい歌はないのか」というのが初めの注文だった)
やってみると、これがなかなか面白く、反響も予想以上だった。また、フェスタの限られた時間ではとても紹介しきれないし、07年は随時、特集を組んで、独立したイベントをやっていこう、という動きになりつつある。ここで、内容を詳細に紹介する余裕はないが、今回の曲目リストの抜粋をご紹介しておこう。
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●「ああわからない」 ソウルフラワー・モノノケ・サミット 『Deracine ChingDong』(XBCD-1012)より
不滅の大道演歌師・添田唖蝉坊による約100年前の歌が、モノノケ・サミット9年ぶりの新作でよみがえる。当時の歌詞が今も古びないのは何故だろう?
●「アスファルトをほりかえせ」 おーまきちまき 『月をみてる』(SAMP-21017)より
神戸の震災被災地や釜ヶ崎など、関西の現場の空気を良く知る歌い手。ここ数年、歌の輝きがぐいぐい増して要注目。
●「ある絵描きの歌」 寺尾紗穂 『愛し、日々』(IML-1003)より
新人・寺尾紗穂が、炊き出しで参加した山谷の「夏祭り」での出会いにインスピレーションを受けて作った歌。従来の運動系文化(?)にはまらない、あらたな感性の出現に乾杯!
● 「ゲットーの歌です(こんなんどうDeath?)feat.ViVi」 Shingo☆西成 『Welcome To Ghetto』(LIBCD-004)より
ディープ大阪・西成に生まれ育ったラッパー。「ゲットー」育ちならではの、しびれるクールネス。ここまでドスのきいた日本語(というかナニワ言葉)のラップがかつてあっただろうか?
●「Mr. Workaholic Man」 Mic Jack Production 『 Universal Truth』(IDMCD-007)より
札幌を拠点に活動するラッパー集団。リリック(言葉)に鋭い批評意識が満ちている。
●「Never Tire Of The Road」 Andy Irvine 『Rain On The Roof』(AK-1)より
アイリッシュ・フォーク・リバイバルの立役者、アンディー・アーバインは、アイルランドで最も敬意を集める音楽家の1人だが、今も吟遊詩人のスタンスを貫く。アンディーの原点が、北米プロテスト・フォークのウッディ・ガスリーへの敬意に発することを示す名曲。来日のステージでは、「Fascists bound to lose」のリフレインが「ファシストは滅ぶ」の大合唱となる。
●「Bush e bugiardo(ブッシュは嘘つき)」 Daniele Sepe und Rote jazz fraktion 『Una banda di pezzenti』(RTPE002)より
サックス奏者のダニエル・セペは南イタリア・ナポリの音楽シーンの顔役。国内南北問題に苦しんできたナポリの、地域の伝統音楽と、ロック、ジャズなどの実験的ミックスを継続し評価を集めている。近作では、汎地中海的なスタンスで、移民問題とリンクしながら、移民の音楽家たちともコラボレートしている。
ナポリで、30余年にわたり、労働者・農民と協働しながら音楽活動を展開してきた集団「e zezi」にも触れつつ、ヨーロッパ周縁における多文化・対抗文化のあり方について小特集を予定。
●「お富さん」 ソウルフラワー・モノノケ・サミット 『Deracine Ching Dong』より
作曲は、沖縄生まれ、奄美大島育ちの渡久地政信(とくち・まさのぶ)。1998年、新宿中央公園で開催されたホームレス支援の「第5回新宿夏まつり」で、事前アンケート中、ホームレス達から最もリクエストの多かった歌。以後、ソウルフラワー・モノノケ・サミットの重要なレパートリーとなった。
<選曲・構成> : 大熊ワタル、二木信、本山謙二 (DeMusik inter.)
<注>数年前、インターネットの普及を受けて、グローバリズムに抵抗する新しい横断的・参加型の労働運動の情報ネットワークとして、世界各国でレイバーネットが出現。それを受け、日本でも労働運動活動家、市民メディア関係者、労働運動研究者が集まり設立された、「労働運動の発展を願うすべての人に開かれたネ ットワークであり、個人の自律性・自主性によって運営される参加型の組織」(レイバーネットHPより)
<号外!>「オリコン、批判的ジャーナリストを高額訴訟」
元AERA記者で「J-POPとは何か」の著者・烏賀陽(うがや)弘道氏が、オリコンのチャートのあり方に批判的なコメントを雑誌に述べた、などとしてオリコンが同氏に5000万円の損倍提訴。コメントが載った媒体ではなくコメンテーター個人を訴えるのは、悪質な言論つぶしに他ならない。仮に同氏のオリコン批判が当たっていないとしても、まず訂正と謝罪を求めるのが筋ではないだろうか。
POPS業界は、家電、流通、メディアなどが利権を求めて絡み合った、不透明な部分が多いことは、大方の識者の意見が一致するところだ。
烏賀陽氏本人のブログなどで事実関係が分かるほか、ジャーナリスト津田大介氏のブログ「音楽配信メモ」が、資料的に充実している(第三者の業界関係者から拾ったコメント集は必読)。ぜひご注目いただきたい。
[link:34] 2007年03月02日(金) 15:14
2007年02月02日(金)「とてもお利口とは思えない・・・オリコン個人提訴事件の問題点」
●当世音楽解体新書 (planB通信07年2月号より)
「とてもお利口とは思えない・・・オリコン個人提訴事件の問題点」
先月号でも少し触れたが、音楽のヒットチャートで知られるオリコンが、批判的なジャーナリストに対し高額訴訟を起こしたという問題について検討してみよう。
あらためて経緯を整理すると、昨年末オリコンは、ジャーナリスト烏賀陽(うがや)弘道氏(※1)が、雑誌「サイゾー」2006年4月号の記事にオリコンチャートの信憑性を疑問視するコメントを提供したことに対し、事実無根の中傷であるとして、雑誌編集部ではなく烏賀陽氏個人に対し、5000万円の損害賠償訴訟を起こした。
記事中のコメントで烏賀陽氏は、オリコンのヒットチャートについて「調査方法をほとんど明らかにしていない」「予約枚数もカウントに入れている」などと指摘。これに対しオリコンは、「1968年のランキング開始以来調査方法を明らかにしてきており、予約枚数もカウントに入れたことはない」などと反論。また、サイゾー誌の記事だけでなく、烏賀陽氏が以前から、「長年に亘り、明らかな事実誤認に基づき、弊社のランキングの信用性が低いかのごとき発言を続け」、「ジャーナリズムの名の下に、基本的な事実確認も行わず、長年の努力によって蓄積された信用・名誉が傷つけ、損なわれることを看過することはできないことからやむを得ず提訴に及んだ」としている。
これに対し、烏賀陽氏は、指摘した問題に関しては、業界関係者の間では広く共有されている認識であること、またオリコンも出版社であり、言論に対しては言論でたたかうのが筋で、「意見が違うものは高額の恫喝訴訟で黙らせる、というのは民事司法を使った暴力」であり「言論・表現の自由という基本的人権」の侵害であると反論。
この件に関し、音楽関係ライターらを中心にネット上では、オリコンの対応を疑問視する多くの声があがっている。とくに、音楽ライター・津田大介氏のブログ「音楽配信メモ」は、オリコン批判ありきではない、バランスを意識したスタンスながら、充実した分析、取材で参考になる(※2)。また、訴訟準備で経済的な負担が大きい烏賀陽氏を支援するカンパ募金サイトも出来た(※3)。一方、既成のマスメディアの反応は鈍く、ごく一部が短信を流した程度。その多くは、ろくに取材もせず、もっぱらオリコンの声明を引き写したようなものだった。(HP「うがやジャーナル」参照)
オリコン側は、烏賀陽氏だけ訴えた理由を、「氏自身が責任をもつ記事だと明言している」ことから、雑誌側への責任は問わなかったのだという。しかし、烏賀陽氏のコメントは記事中のごく一部で、記事の基本的論調は、あくまで編集部の責任にあることは明白だ。オリコンの論理は、強引と言うしかない。
また、なぜ5000万という高額の損害請求額なのか。オリコン側は、「賠償金が欲しいのではなく、これ以上の事実誤認の情報が流れないように抑制力としたい」という。また当初、烏賀陽氏が謝罪して訂正すれば訴訟を取り下げてもよい、という社長のコメントも出していた。オリコンは、烏賀陽氏があっさり引き下がると踏んでいたかもしれない。
オリコンの不可解なこじつけは、それだけではない。烏賀陽氏が、「長年にわたり他のメディアでも」敵対してきたというが、今回の記事以外では、03年のAERA誌での記事ぐらいしか前例がないという。しかも、烏賀陽氏の指摘は、彼独自のものというより、業界関係者に広く共有されている認識なのであり、結局、これは、目障りな批判者を、札束で引っ叩き、潰そうという暴力以外の何なのだろう。
具体的な損害等について認定を争うのではなく、訴えること自体が目的ということになれば、禁じ手である訴訟権の濫用として、オリコンの自縄自縛(自爆?)になるだろうという見方もある。しかし、このような企業から個人に対する「戦略的訴訟」が、国内外で増えているそうだ。この「訴訟テロ」を放置すると、どういうことになるのか。たとえばIT情報アナリスト・横山哲也氏は、以下のように警鐘を鳴らす。
「批判に対して,反論し,謝罪と訂正を要求するのが言論の常識とすれば,いきなり訴訟に持ち込むのはまさに暴力であり、言論の否定である。このような行為が許されるのであれば,大企業への批判は誰もできなくなる。ジャーナリズムの危機である。にもかかわらず,既存メディアの動きは極めて鈍い。訴訟の行方も気になるが,マスコミの鈍感さはもっと気になる。」
たしかに、他人事ではないはずなのに、ジャーナリズム全体の問題だ、というような認識が、ほとんど見当たらない。本当に危険なのは、そこなのかもしれない。(2月13日に、東京地裁で第1回口頭弁論が開催される。)
(1)フリージャーナリスト烏賀陽弘道氏は、元AERA記者で、『J-POPとは何か』などの著書がある。HP「うがやじゃーなる」http://ugaya.com/ には、サイゾー記事・本文はじめ、メディア各社の記事・取材のあり方についての一覧など、興味深い内容がアップされている。
(2)津田氏が取材した複数の業界関係者のコメントは、実に興味深い。それらは、オリコンチャートを信頼するにせよ、しないにせよ、チャートは(限定的にせよ)操作可能らしいと示唆している。ここから
(3)「オリコン個人提訴事件を憂慮し、烏賀陽弘道氏を支援するカンパ活動 」
http://d.hatena.ne.jp/oricon-ugaya/20070124/1169640998
「とてもお利口とは思えない・・・オリコン個人提訴事件の問題点」
先月号でも少し触れたが、音楽のヒットチャートで知られるオリコンが、批判的なジャーナリストに対し高額訴訟を起こしたという問題について検討してみよう。
あらためて経緯を整理すると、昨年末オリコンは、ジャーナリスト烏賀陽(うがや)弘道氏(※1)が、雑誌「サイゾー」2006年4月号の記事にオリコンチャートの信憑性を疑問視するコメントを提供したことに対し、事実無根の中傷であるとして、雑誌編集部ではなく烏賀陽氏個人に対し、5000万円の損害賠償訴訟を起こした。
記事中のコメントで烏賀陽氏は、オリコンのヒットチャートについて「調査方法をほとんど明らかにしていない」「予約枚数もカウントに入れている」などと指摘。これに対しオリコンは、「1968年のランキング開始以来調査方法を明らかにしてきており、予約枚数もカウントに入れたことはない」などと反論。また、サイゾー誌の記事だけでなく、烏賀陽氏が以前から、「長年に亘り、明らかな事実誤認に基づき、弊社のランキングの信用性が低いかのごとき発言を続け」、「ジャーナリズムの名の下に、基本的な事実確認も行わず、長年の努力によって蓄積された信用・名誉が傷つけ、損なわれることを看過することはできないことからやむを得ず提訴に及んだ」としている。
これに対し、烏賀陽氏は、指摘した問題に関しては、業界関係者の間では広く共有されている認識であること、またオリコンも出版社であり、言論に対しては言論でたたかうのが筋で、「意見が違うものは高額の恫喝訴訟で黙らせる、というのは民事司法を使った暴力」であり「言論・表現の自由という基本的人権」の侵害であると反論。
この件に関し、音楽関係ライターらを中心にネット上では、オリコンの対応を疑問視する多くの声があがっている。とくに、音楽ライター・津田大介氏のブログ「音楽配信メモ」は、オリコン批判ありきではない、バランスを意識したスタンスながら、充実した分析、取材で参考になる(※2)。また、訴訟準備で経済的な負担が大きい烏賀陽氏を支援するカンパ募金サイトも出来た(※3)。一方、既成のマスメディアの反応は鈍く、ごく一部が短信を流した程度。その多くは、ろくに取材もせず、もっぱらオリコンの声明を引き写したようなものだった。(HP「うがやジャーナル」参照)
オリコン側は、烏賀陽氏だけ訴えた理由を、「氏自身が責任をもつ記事だと明言している」ことから、雑誌側への責任は問わなかったのだという。しかし、烏賀陽氏のコメントは記事中のごく一部で、記事の基本的論調は、あくまで編集部の責任にあることは明白だ。オリコンの論理は、強引と言うしかない。
また、なぜ5000万という高額の損害請求額なのか。オリコン側は、「賠償金が欲しいのではなく、これ以上の事実誤認の情報が流れないように抑制力としたい」という。また当初、烏賀陽氏が謝罪して訂正すれば訴訟を取り下げてもよい、という社長のコメントも出していた。オリコンは、烏賀陽氏があっさり引き下がると踏んでいたかもしれない。
オリコンの不可解なこじつけは、それだけではない。烏賀陽氏が、「長年にわたり他のメディアでも」敵対してきたというが、今回の記事以外では、03年のAERA誌での記事ぐらいしか前例がないという。しかも、烏賀陽氏の指摘は、彼独自のものというより、業界関係者に広く共有されている認識なのであり、結局、これは、目障りな批判者を、札束で引っ叩き、潰そうという暴力以外の何なのだろう。
具体的な損害等について認定を争うのではなく、訴えること自体が目的ということになれば、禁じ手である訴訟権の濫用として、オリコンの自縄自縛(自爆?)になるだろうという見方もある。しかし、このような企業から個人に対する「戦略的訴訟」が、国内外で増えているそうだ。この「訴訟テロ」を放置すると、どういうことになるのか。たとえばIT情報アナリスト・横山哲也氏は、以下のように警鐘を鳴らす。
「批判に対して,反論し,謝罪と訂正を要求するのが言論の常識とすれば,いきなり訴訟に持ち込むのはまさに暴力であり、言論の否定である。このような行為が許されるのであれば,大企業への批判は誰もできなくなる。ジャーナリズムの危機である。にもかかわらず,既存メディアの動きは極めて鈍い。訴訟の行方も気になるが,マスコミの鈍感さはもっと気になる。」
たしかに、他人事ではないはずなのに、ジャーナリズム全体の問題だ、というような認識が、ほとんど見当たらない。本当に危険なのは、そこなのかもしれない。(2月13日に、東京地裁で第1回口頭弁論が開催される。)
(1)フリージャーナリスト烏賀陽弘道氏は、元AERA記者で、『J-POPとは何か』などの著書がある。HP「うがやじゃーなる」http://ugaya.com/ には、サイゾー記事・本文はじめ、メディア各社の記事・取材のあり方についての一覧など、興味深い内容がアップされている。
(2)津田氏が取材した複数の業界関係者のコメントは、実に興味深い。それらは、オリコンチャートを信頼するにせよ、しないにせよ、チャートは(限定的にせよ)操作可能らしいと示唆している。ここから
(3)「オリコン個人提訴事件を憂慮し、烏賀陽弘道氏を支援するカンパ活動 」
http://d.hatena.ne.jp/oricon-ugaya/20070124/1169640998
[link:35] 2007年03月02日(金) 15:18
「江戸の声」
黒木文庫でみる音楽と演劇の世界
http://tdgl.c.u-tokyo.ac.jp/~bihaku/2005.htm#edo
東京大学駒場キャンパスに、黒木文庫という演劇書コレクションがあります。旧制東京高等学校教授黒木勘蔵(1882-1930)が築いたもので、約3千点から成ります。氏は教務のかたわら、音楽文献を調査し、近世日本音楽を一箇の研究分野に押し上げるほどの功労者でもあり、一代の目利き、本のコレクターでもありました。
戦火をくぐった蔵書は、やがて新制・東京大学教養学部文学部国文学漢文学教室へと移り、以来半世紀以上、広く活用される機会がないまま、銀杏並木を臨む静かな一室で眠っていました。展覧会では、関連資料から、音楽の正本(演奏記録)と稽古本、義太夫節、そして近世から近代に至る歌舞伎といったジャンルの資料から、百余点を初公開します。
<以上、HPより抜粋>
駒場東大は何度目かだが、はたして何年ぶりか、「風の旅団」公演弾圧騒ぎ以来か?
いや、89年のXデー自粛騒ぎに抗するイベント「NOISE in Xes」のときだったか。
だと17年ぶりか・・・。
ポスターに引かれたのと、入場無料だったこともあるが、天気のよいうちに散歩しておきたかった。
東大の博物館は初めて。長唄にいたる近世音楽の変遷、書誌の貴重な展示。
ほとんど、出版資料のみであるが、原資料(出版物)と、補助的な絵図や年表、概説などで、声や音が響きあった様子は、じゅうぶん感じられた。
ひとくちに長唄といっても、常磐津や清元、新内の違いなど、なかなか知る機会が少ないが、その辺りを大づかみに概観するにはよい機会だった。
その後、池ノ上から、下北沢界隈を散歩。先日散歩にもってこいの地図をゲットしたので、いつもの駅周辺ではなく、まわりから迫ってみたかったのだ。
森巖寺や代沢八幡はもう夕暮れで、脇を通り過ぎるのみだが、地形の起伏がよくわかる。下北沢の「沢」、つまり丘陵に挟まれた谷であることをあらためて実感。寺の敷地にあるはずの富士塚が半分にスライスされ、悲惨な姿。墓地の整備で半分削られたようだ。
スズナリに出来た古本屋で、実相寺監督の文庫本「怪獣な日々」と、去年亡くなった貝原浩画伯の天皇風刺漫画ゲット。後者はまさに?]デー前夜〜自粛騒ぎのころに出た本だった。「怪獣な日々」はすでに1冊持っていたような気もしたが、状態と値段でつい買ってしまった。