2007年12月06日(木)市ヶ谷掃苔記〜なき学館のエコーが聞こえた
[link:42] 2007年12月06日(木) 05:10
2007年11月01日(木)「mit Tuba」(瀬川深)書評
この小説は、チューバ(とチューバ奏者)がテーマということで、少し話題になったように覚えている。が、個人的には、たまたま、インターネットで、この作品がシカラムータをひとつのモチーフにしている、という作者のコメントを目にして、驚くとともに関心をもった。
http://www.chikumashobo.co.jp/dazai/23/
正直、どんな風にネタになっているのだろう?と一抹の警戒心もあった。しかし、ちょうど、ある音楽雑誌から、書評の依頼があったので読んでみると、それは杞憂で、気持ちのよい小説だった。
この作品は、太宰賞の最終審査に残ったほかの三作とともに筑摩書房からの太宰賞ムックとして刊行されている。それによれば、二次審査を通過した作品だけで、何十作もあり、さらに最終審査を経た四作品のなかから、最終的にただ1作選ばれたのがこの作品だ。チューバという一風変わった楽器を通して音楽の楽しさを描いた、しかも、よりによってシカラムータやファンファーレ・チョカーリアをモチーフとして描かれたような作品が、そのような受賞作となったことに、率直に祝福の言葉を捧げたい。
<以下本文・ミュージックマガジン誌に書いた原稿に若干加筆したもの>
音楽小説というくくり方なら、いろいろ作品があるだろう。しかし、楽器がテーマの小説はあまりないかもしれない。太宰治賞選者の小川洋子さんが「楽器小説の誕生」と評していたが、ギターやサックスなどではなく、チューバという「縁の下の力持ち」的な楽器であるところが面白い。
そしてチューバを愛する主人公は、まだ20代の女性だ。チューバ娘!大きな図体のチューバと、うら若き女性という組み合わせもなかなか妙だ。彼女は、中学時代、部活のブラスバンドでさしたる理由もなく、チューバのパートを割り当てられる。賑やかな他のパートにくらべ、チューバは先輩と主人公の2人だけ。朴訥だが、音楽の深さに通じている先輩のキャラクターが印象的。そして高校のブラバンでは集団の人間関係に馴染めず退部。その後、会社勤めの傍ら、気の向くままに河原で風に吹かれながら練習する「インディペンダント」のチューバ吹きに。
そもそも金管楽器は、軍楽など集団演奏を主目的に発達してきたと思われるが、集団には、個々の限られた力を共同作業で足し算以上のものにする可能性がある半面、とかく閉鎖的になったり、同質化圧力が辛かったりしがちだ。この小説でも、そのあたりが主要な背景として描かれている。
主人公が、地下鉄で遭遇した「黒帽子のクラリネット男」に誘われ、我楽多楽團という一癖もふた癖もある連中の活動に加わるところから小説は動きだす。彼らのレパートリーや、メンバーの様子など、モデルとなったバンドを知る人は、ニヤニヤせずにおれないだろう(※)。
しかし、この小説の強みというか美点は、そういった楽器や人物の描写だけでなく、何よりも音楽が弾けたり高揚する瞬間をよくつかまえていることだ。
飛翔する旋律を、大地の黒い土となって支える、というチューバ魂や、バルカンバンドの演奏が爆発するくだりなど、何度読んでも胸が熱くなる。
(※)「黒帽子」以外にも「バイオリンのケータさん」「チャンチキ太鼓のバンマス」たちが、「不屈の民」や「四丁目」はたまた「鳥の歌(と思しきカタロニア民謡)」を演奏したりする。
http://www.chikumashobo.co.jp/dazai/23/
正直、どんな風にネタになっているのだろう?と一抹の警戒心もあった。しかし、ちょうど、ある音楽雑誌から、書評の依頼があったので読んでみると、それは杞憂で、気持ちのよい小説だった。
この作品は、太宰賞の最終審査に残ったほかの三作とともに筑摩書房からの太宰賞ムックとして刊行されている。それによれば、二次審査を通過した作品だけで、何十作もあり、さらに最終審査を経た四作品のなかから、最終的にただ1作選ばれたのがこの作品だ。チューバという一風変わった楽器を通して音楽の楽しさを描いた、しかも、よりによってシカラムータやファンファーレ・チョカーリアをモチーフとして描かれたような作品が、そのような受賞作となったことに、率直に祝福の言葉を捧げたい。
<以下本文・ミュージックマガジン誌に書いた原稿に若干加筆したもの>
音楽小説というくくり方なら、いろいろ作品があるだろう。しかし、楽器がテーマの小説はあまりないかもしれない。太宰治賞選者の小川洋子さんが「楽器小説の誕生」と評していたが、ギターやサックスなどではなく、チューバという「縁の下の力持ち」的な楽器であるところが面白い。
そしてチューバを愛する主人公は、まだ20代の女性だ。チューバ娘!大きな図体のチューバと、うら若き女性という組み合わせもなかなか妙だ。彼女は、中学時代、部活のブラスバンドでさしたる理由もなく、チューバのパートを割り当てられる。賑やかな他のパートにくらべ、チューバは先輩と主人公の2人だけ。朴訥だが、音楽の深さに通じている先輩のキャラクターが印象的。そして高校のブラバンでは集団の人間関係に馴染めず退部。その後、会社勤めの傍ら、気の向くままに河原で風に吹かれながら練習する「インディペンダント」のチューバ吹きに。
そもそも金管楽器は、軍楽など集団演奏を主目的に発達してきたと思われるが、集団には、個々の限られた力を共同作業で足し算以上のものにする可能性がある半面、とかく閉鎖的になったり、同質化圧力が辛かったりしがちだ。この小説でも、そのあたりが主要な背景として描かれている。
主人公が、地下鉄で遭遇した「黒帽子のクラリネット男」に誘われ、我楽多楽團という一癖もふた癖もある連中の活動に加わるところから小説は動きだす。彼らのレパートリーや、メンバーの様子など、モデルとなったバンドを知る人は、ニヤニヤせずにおれないだろう(※)。
しかし、この小説の強みというか美点は、そういった楽器や人物の描写だけでなく、何よりも音楽が弾けたり高揚する瞬間をよくつかまえていることだ。
飛翔する旋律を、大地の黒い土となって支える、というチューバ魂や、バルカンバンドの演奏が爆発するくだりなど、何度読んでも胸が熱くなる。
(※)「黒帽子」以外にも「バイオリンのケータさん」「チャンチキ太鼓のバンマス」たちが、「不屈の民」や「四丁目」はたまた「鳥の歌(と思しきカタロニア民謡)」を演奏したりする。
[link:40] 2008年03月24日(月) 07:18
2007年11月01日(木)「アラン・ローマックス選集」書評
(本稿はplanB通信11月号の「当世音楽解体新書」に若干加筆したものです。)
秋の夜長にふさわしく、今回は本の紹介を。
『アラン・ローマックス選集 アメリカン・ルーツ・ミュージックの探究1934-1997』(柿沼敏江訳・みすず書房)
副題にあるように、アラン・ローマックスは、北米の民間音楽・民衆音楽を世に広めた第一人者だ。今まで、断片的に名前だけ聞こえていたローマックスの仕事の全容が一挙に目の前に! これはちょっとした事件だ!
「アメリカのフォーク、ブルース、ジャズの発展に決定的な影響を及ぼした男」(帯コピー)
「彼がいなかったとしたらブルースの爆発もR&Bの運動もなかっただろうし、ビートルズもローリング・ストーンズもヴェルヴェット・アンダーグラウンドも生まれなかっただろう」(ブライアン・イーノ)
これらは決して大げさな言葉とはいえない。彼の父、ジョン・ローマックスも民謡収集家だった。若干18歳で、父の民謡収集活動の助手としてアランのキャリアは始まった。そして、20歳そこそこで、議会図書館のアメリカ民謡資料室のディレクターに任命されたときは、すでに「膨大なフィールドワークをこなし」「よく訓練されたベテラン」だったという。
ローマックス父子は、南部を中心に、作業歌、酒場の歌、無法者のバラッドなど、黒人の「世俗歌曲」や、植民者の末裔たちが伝える、ヨーロッパ由来の古いバラッドなどを記録・収集した。農園や、線路工事の現場、監獄など、実にさまざまな場所に、当時の重い録音機材を携えて出没した取材の様子が興味深い。
アランはまた、左翼の活動家だったと伝えられるが、時代がルーズベルト大統領のニューディール時代だったことも大きいだろう。北米で、労働者や農民、失業者たちなどの社会主義運動がもっとも盛んだったころだ。一時期、ホワイトハウスの文化事業にも関与している。予算もとりやすかっただろう。
当時のアメリカ社会が、それまでのヨーロッパ・コンプレックスから脱し、「アメリカらしさ」を探していた時期だったことも、ローマックスの仕事がアピールする後押しになったようだ。
戦後になると、8年間という長期にわたって、ヨーロッパに渡り、またもや各地で民謡収集活動を展開した。この「国外脱出」の大きな理由は、冷戦時代とともに米国が迎えた、悪名高い「赤狩り」の季節を避けるためだった。しかし、その副産物は実り多いものとなった。
当時のヨーロッパには、かつてアランが父の助手を始めた頃の北米同様、各地の民謡が、ほとんど外部に知られないまま手付かずで残っていた。スペインやイタリアでの民謡調査・収集など、彼の記録が、初の録音となったという例が山ほどあるようだ。
また、50年代のイギリスでブームを迎えようとしていたスキッフル(アメリカのブルースの模倣から始まったバンド・ブーム。ブリティッシュ・ロックの伏線になった)のシーンにもかかわった。そもそもスキッフルの起爆剤となったのが、かつてローマックス父子が監獄で「発見」したブルース歌手・レッドベリーの曲のカバーだったわけで、その意味では、ブリティッシュ・ロックの産婆役をも果たしたと言えるかもしれない。
さて、ローマックスは、歴史的な記録を膨大に収集しただけではなく、それを社会に紹介するラジオ番組やレコードのプロデューサーとしても手腕を発揮した。メディアとの関わりにおいても、マイノリティーの尊重や文化的平等といったローマックスのモットーが生かされた。そこには、後の「ワールドミュージック」のましな部分を先取りしているといえる。
ウッディー・ガスリーのような、フォーク・シンガーを紹介し、ピート・シーガー(をはじめとするシーガー一家)ら、フォーク・ムーブメントの牽引役を果たしたことも大きな功績だ。言うまでもなく、北米から火がついたフォーク・リバイバルは、その後ヨーロッパはもちろん、日本など多くの国々を席巻した。
ところで、ローマックスの青年時代、日本でも音楽学者たちにより、NHKの「民謡大観」の収集作業が行われている。もちろんローマックスとは、文脈も、視点も大きく異なっているが、同時代の民謡収集作業として比較検討するのも面白いかもしれない。
また「戦後」では、学際的な視点で世界の民俗音楽を紹介した小泉文夫や、独自のスタンスで沖縄音楽を紹介した竹中労、そして大道芸などの忘れられた民衆芸能にスポットを当てた小沢昭一ら各氏も、比較対象として想定できるだろう。
それにしても、ジャズ、ブルース、そしてそれらの鬼子たるロック…、これら北米発のポピュラー音楽の、そのどこを切っても、ローマックスのエコーが聞こえてくるということになる。
これら北米由来の音楽は、日本においても、あって当たり前のような存在となって久しいが、ローマックスの仕事の全容が見えてきたことによって、アメリカ(あくまで北米ではあるが)音楽とは何か、また日本における北米音楽の受容のあり方について、あらたな側面も見えてくるのではないだろうか。
それらが「ここ」において「自明」であるということ自体、植民地主義的(コロニアル)な出来事だと言えるのだが、ローマックスの仕事の再検討は、「われわれ」にとってのアメリカ音楽について、ポストコロニアル的な読解を促す起爆剤となりうるだろう。
それはともかく、本書で、ローマックス自身の声に触れるだけでも興味は尽きない。また彼の残した貴重な記録音源は、現在、ラウンダーレコードから、続々と再リリース中で、そちらも要注目だ。
秋の夜長にふさわしく、今回は本の紹介を。
『アラン・ローマックス選集 アメリカン・ルーツ・ミュージックの探究1934-1997』(柿沼敏江訳・みすず書房)
副題にあるように、アラン・ローマックスは、北米の民間音楽・民衆音楽を世に広めた第一人者だ。今まで、断片的に名前だけ聞こえていたローマックスの仕事の全容が一挙に目の前に! これはちょっとした事件だ!
「アメリカのフォーク、ブルース、ジャズの発展に決定的な影響を及ぼした男」(帯コピー)
「彼がいなかったとしたらブルースの爆発もR&Bの運動もなかっただろうし、ビートルズもローリング・ストーンズもヴェルヴェット・アンダーグラウンドも生まれなかっただろう」(ブライアン・イーノ)
これらは決して大げさな言葉とはいえない。彼の父、ジョン・ローマックスも民謡収集家だった。若干18歳で、父の民謡収集活動の助手としてアランのキャリアは始まった。そして、20歳そこそこで、議会図書館のアメリカ民謡資料室のディレクターに任命されたときは、すでに「膨大なフィールドワークをこなし」「よく訓練されたベテラン」だったという。
ローマックス父子は、南部を中心に、作業歌、酒場の歌、無法者のバラッドなど、黒人の「世俗歌曲」や、植民者の末裔たちが伝える、ヨーロッパ由来の古いバラッドなどを記録・収集した。農園や、線路工事の現場、監獄など、実にさまざまな場所に、当時の重い録音機材を携えて出没した取材の様子が興味深い。
アランはまた、左翼の活動家だったと伝えられるが、時代がルーズベルト大統領のニューディール時代だったことも大きいだろう。北米で、労働者や農民、失業者たちなどの社会主義運動がもっとも盛んだったころだ。一時期、ホワイトハウスの文化事業にも関与している。予算もとりやすかっただろう。
当時のアメリカ社会が、それまでのヨーロッパ・コンプレックスから脱し、「アメリカらしさ」を探していた時期だったことも、ローマックスの仕事がアピールする後押しになったようだ。
戦後になると、8年間という長期にわたって、ヨーロッパに渡り、またもや各地で民謡収集活動を展開した。この「国外脱出」の大きな理由は、冷戦時代とともに米国が迎えた、悪名高い「赤狩り」の季節を避けるためだった。しかし、その副産物は実り多いものとなった。
当時のヨーロッパには、かつてアランが父の助手を始めた頃の北米同様、各地の民謡が、ほとんど外部に知られないまま手付かずで残っていた。スペインやイタリアでの民謡調査・収集など、彼の記録が、初の録音となったという例が山ほどあるようだ。
また、50年代のイギリスでブームを迎えようとしていたスキッフル(アメリカのブルースの模倣から始まったバンド・ブーム。ブリティッシュ・ロックの伏線になった)のシーンにもかかわった。そもそもスキッフルの起爆剤となったのが、かつてローマックス父子が監獄で「発見」したブルース歌手・レッドベリーの曲のカバーだったわけで、その意味では、ブリティッシュ・ロックの産婆役をも果たしたと言えるかもしれない。
さて、ローマックスは、歴史的な記録を膨大に収集しただけではなく、それを社会に紹介するラジオ番組やレコードのプロデューサーとしても手腕を発揮した。メディアとの関わりにおいても、マイノリティーの尊重や文化的平等といったローマックスのモットーが生かされた。そこには、後の「ワールドミュージック」のましな部分を先取りしているといえる。
ウッディー・ガスリーのような、フォーク・シンガーを紹介し、ピート・シーガー(をはじめとするシーガー一家)ら、フォーク・ムーブメントの牽引役を果たしたことも大きな功績だ。言うまでもなく、北米から火がついたフォーク・リバイバルは、その後ヨーロッパはもちろん、日本など多くの国々を席巻した。
ところで、ローマックスの青年時代、日本でも音楽学者たちにより、NHKの「民謡大観」の収集作業が行われている。もちろんローマックスとは、文脈も、視点も大きく異なっているが、同時代の民謡収集作業として比較検討するのも面白いかもしれない。
また「戦後」では、学際的な視点で世界の民俗音楽を紹介した小泉文夫や、独自のスタンスで沖縄音楽を紹介した竹中労、そして大道芸などの忘れられた民衆芸能にスポットを当てた小沢昭一ら各氏も、比較対象として想定できるだろう。
それにしても、ジャズ、ブルース、そしてそれらの鬼子たるロック…、これら北米発のポピュラー音楽の、そのどこを切っても、ローマックスのエコーが聞こえてくるということになる。
これら北米由来の音楽は、日本においても、あって当たり前のような存在となって久しいが、ローマックスの仕事の全容が見えてきたことによって、アメリカ(あくまで北米ではあるが)音楽とは何か、また日本における北米音楽の受容のあり方について、あらたな側面も見えてくるのではないだろうか。
それらが「ここ」において「自明」であるということ自体、植民地主義的(コロニアル)な出来事だと言えるのだが、ローマックスの仕事の再検討は、「われわれ」にとってのアメリカ音楽について、ポストコロニアル的な読解を促す起爆剤となりうるだろう。
それはともかく、本書で、ローマックス自身の声に触れるだけでも興味は尽きない。また彼の残した貴重な記録音源は、現在、ラウンダーレコードから、続々と再リリース中で、そちらも要注目だ。
[link:41] 2007年11月01日(木) 10:01
2007年10月13日(土)ビルマの軍艦マーチ
planB通信10月号・当世音楽解体新書より
「ビルマの軍艦マーチ」
軍政の続くビルマ(ミャンマー)で、連日、市民の抗議行動が続いている。日本人ジャーナリスト・長井健司さんが取材中に射殺されたことで日本でも大きく報道された。長井さんが倒れたまま、カメラを逃げ惑う民衆に向け続けた最後の姿に、衝撃と感銘を受けた人も多いだろう。
抗議行動は、軍の冷酷で徹底的な弾圧により押さえ込まれつつあるようだが、それはアウンサンスーチーさんたち国民民主連盟(NLD)の民主化運動が盛り上がった1988年以来の激しい動きだった。日本にも、ビルマから逃れてきた政治的難民も少なくない。
この機会に、あらためてビルマの軍事政権と、民主化、そして、それらと日本の関係を考えてみよう。
まず、ミャンマーという呼称について。これは、現在の軍事政権が、89年に、それまでのビルマから、ミャンマーに正式名称を変更したわけだが、この二つの単語の指示する意味の差異は、たんに口語的表現か、文語的表現かといった違いにすぎないようだ。しかし、その正統性に大きな疑問のある軍事政権が決定した名称変更ということで、「ミャンマー」と「ビルマ」のどちらを取るか、軍事政権との関係性・スタンスが現れてくる。
欧米では、軍政の人権問題などを重視して、外交的にも報道的にも、ビルマの呼称(すくなくとも併称)が一般的だが、経済・軍事的に利害関係のある中国やロシアは、ミャンマー側一辺倒だし、日本も、ODAなどで経済的関係があり、すぐに軍事政権を認めたミャンマー派だ。
ここでビルマの歴史を少し振り返ってみると、まず19世紀後半、隣接する植民地インドの宗主国イギリスとの抗争に敗れ、ビルマはイギリス植民地となった(1885)。第一次世界大戦の頃から独立運動が盛んになったが、30年代末に、反英運動の若きリーダーとして頭角を現したのがアウンサンであり、アウンサンスーチーは、その長女にあたる。
第二次世界大戦中、アウンサンたちの反英運動に目を付けたのが、日本軍の特務機関である南機関だった。当時ビルマは、連合国から中国への補給路となっていたので、日本軍にとってビルマの若者たちの反英運動は大いに利用価値のあるものだったのだ。南機関は、アウンサンたちを国外脱出させ、日本にかくまったり、同志を募らせ海南島などで軍事訓練を受けさせるなど、さまざまな支援をした。そして41年、アウンサンたちは南機関の肝いりで独立義勇軍を組織、日本軍と共闘して42年には英印軍を敗走させた。
しかし、日本軍中枢は、アウンサンたちの独立を反故にし、独立運動に深入りした南機関は軍中枢と齟齬をきたし解散となる。日本軍への不信(略奪・強制労働などもあった)を経て、日本軍の敗色が濃くなると、アウンサンたちは、イギリスなどの連合軍に寝返り、45年、抗日闘争に勝利した。対日戦略のため、アウンサンたちを支援したイギリスもまた、独立の約束を反故にして、ビルマは再びイギリス植民地となったが、独立運動を止める事はできなかった。しかし、アウンサンは、48年の独立直前に政敵に暗殺され、待望の日を見ることはなかった。
このように、ビルマ独立と、それを担ったビルマ国軍は、旧日本軍と浅からぬ関係があり、そのため、戦後も国軍リーダーたちは親日派であり、あるいは、その振る舞いによって、対日政策で、利益を誘導してきたとも言える。しかし、現在でもミャンマー国軍のマーチが、まず行進曲「軍艦」で始まるという例からも、「親日」が方便だけでなく、軍政のDNAに、旧日本軍の遺伝子が組み込まれていることが分かる。
筆者は、軍艦行進曲の実例は未聴だが、ミャンマー国軍による、別な日本の軍楽をTVで聞いて腰を抜かしそうになったことがある。それは、アウンサンスーチーさんたちの民主化運動や軍政によるクーデターなどを報じた、NHKの報道番組だったが、そこで聞こえてきたのは、筆者が、チンドン屋で聞き覚えた通称「ゴタイテン(御大典)マーチ」にほかならなかった。今、試みにネット検索してみても、そのようなタイトルの曲は見当たらないが、おそらくは昭和天皇の即位にさいして作られた行進曲が、後々、チンドン屋のレパートリーに僅かに生き残ったのだろう。
チンドン楽士として、その曲を自分自身、何度か演奏したことがあったので、TVから聞こえてきたミャンマー国軍の演奏には、歴史にアタマを殴られたような衝撃を覚えたものだ。
さて、日本人は経済的諸関係などにおいて、ミャンマー軍政に直接・間接に加担してきたともいえる。ビルマの民衆の叫びは他人事といえるだろうか?
「ビルマの軍艦マーチ」
軍政の続くビルマ(ミャンマー)で、連日、市民の抗議行動が続いている。日本人ジャーナリスト・長井健司さんが取材中に射殺されたことで日本でも大きく報道された。長井さんが倒れたまま、カメラを逃げ惑う民衆に向け続けた最後の姿に、衝撃と感銘を受けた人も多いだろう。
抗議行動は、軍の冷酷で徹底的な弾圧により押さえ込まれつつあるようだが、それはアウンサンスーチーさんたち国民民主連盟(NLD)の民主化運動が盛り上がった1988年以来の激しい動きだった。日本にも、ビルマから逃れてきた政治的難民も少なくない。
この機会に、あらためてビルマの軍事政権と、民主化、そして、それらと日本の関係を考えてみよう。
まず、ミャンマーという呼称について。これは、現在の軍事政権が、89年に、それまでのビルマから、ミャンマーに正式名称を変更したわけだが、この二つの単語の指示する意味の差異は、たんに口語的表現か、文語的表現かといった違いにすぎないようだ。しかし、その正統性に大きな疑問のある軍事政権が決定した名称変更ということで、「ミャンマー」と「ビルマ」のどちらを取るか、軍事政権との関係性・スタンスが現れてくる。
欧米では、軍政の人権問題などを重視して、外交的にも報道的にも、ビルマの呼称(すくなくとも併称)が一般的だが、経済・軍事的に利害関係のある中国やロシアは、ミャンマー側一辺倒だし、日本も、ODAなどで経済的関係があり、すぐに軍事政権を認めたミャンマー派だ。
ここでビルマの歴史を少し振り返ってみると、まず19世紀後半、隣接する植民地インドの宗主国イギリスとの抗争に敗れ、ビルマはイギリス植民地となった(1885)。第一次世界大戦の頃から独立運動が盛んになったが、30年代末に、反英運動の若きリーダーとして頭角を現したのがアウンサンであり、アウンサンスーチーは、その長女にあたる。
第二次世界大戦中、アウンサンたちの反英運動に目を付けたのが、日本軍の特務機関である南機関だった。当時ビルマは、連合国から中国への補給路となっていたので、日本軍にとってビルマの若者たちの反英運動は大いに利用価値のあるものだったのだ。南機関は、アウンサンたちを国外脱出させ、日本にかくまったり、同志を募らせ海南島などで軍事訓練を受けさせるなど、さまざまな支援をした。そして41年、アウンサンたちは南機関の肝いりで独立義勇軍を組織、日本軍と共闘して42年には英印軍を敗走させた。
しかし、日本軍中枢は、アウンサンたちの独立を反故にし、独立運動に深入りした南機関は軍中枢と齟齬をきたし解散となる。日本軍への不信(略奪・強制労働などもあった)を経て、日本軍の敗色が濃くなると、アウンサンたちは、イギリスなどの連合軍に寝返り、45年、抗日闘争に勝利した。対日戦略のため、アウンサンたちを支援したイギリスもまた、独立の約束を反故にして、ビルマは再びイギリス植民地となったが、独立運動を止める事はできなかった。しかし、アウンサンは、48年の独立直前に政敵に暗殺され、待望の日を見ることはなかった。
このように、ビルマ独立と、それを担ったビルマ国軍は、旧日本軍と浅からぬ関係があり、そのため、戦後も国軍リーダーたちは親日派であり、あるいは、その振る舞いによって、対日政策で、利益を誘導してきたとも言える。しかし、現在でもミャンマー国軍のマーチが、まず行進曲「軍艦」で始まるという例からも、「親日」が方便だけでなく、軍政のDNAに、旧日本軍の遺伝子が組み込まれていることが分かる。
筆者は、軍艦行進曲の実例は未聴だが、ミャンマー国軍による、別な日本の軍楽をTVで聞いて腰を抜かしそうになったことがある。それは、アウンサンスーチーさんたちの民主化運動や軍政によるクーデターなどを報じた、NHKの報道番組だったが、そこで聞こえてきたのは、筆者が、チンドン屋で聞き覚えた通称「ゴタイテン(御大典)マーチ」にほかならなかった。今、試みにネット検索してみても、そのようなタイトルの曲は見当たらないが、おそらくは昭和天皇の即位にさいして作られた行進曲が、後々、チンドン屋のレパートリーに僅かに生き残ったのだろう。
チンドン楽士として、その曲を自分自身、何度か演奏したことがあったので、TVから聞こえてきたミャンマー国軍の演奏には、歴史にアタマを殴られたような衝撃を覚えたものだ。
さて、日本人は経済的諸関係などにおいて、ミャンマー軍政に直接・間接に加担してきたともいえる。ビルマの民衆の叫びは他人事といえるだろうか?
[link:39] 2007年10月13日(土) 04:56
2007年07月04日(水)検証「地中海音楽の断層・南イタリア音楽シーンの磁場を聴く」
planB通信7月号
検証「地中海音楽の断層・南イタリア音楽シーンの磁場を聴く」
〜となりの芝生から見えてくるモノ
5月末に予定されていたナポリの鬼才、ダニエレ・セーペ来日公演は、直前になり急遽キャンセルになってしまった(家族の健康問題)が、5月26日planBでの「ダニエレ・セーペ来日記念 DJ&トーク 地中海音楽の断層・南イタリア音楽シーンの磁場を聴く」は、期待をさらに上回る面白さ、充実した内容だった。
講師を務めてくれたチャールズ・フェリスをあらためて紹介しておくと、1971年生まれでカリフォルニア大学バークレー校音楽文化学博士課程。現在ミュージシャン/エスノミュージコロジストとしてナポリ在住。トランペット奏者として現地のミュージシャンと音楽活動をしながら、ナポリの音楽シーンを通して移民やイタリア南北問題等、様々な社会問題を考察するフィールドワークに取り組んでいる。
話は、まずナポリ音楽シーンの顔役、ダニエレの新譜の紹介から始まった。2003年の傑作「アニメ・カンディード(率直な魂)」のあと、近作は、やや落ち込み傾向を感じさせたが、昨年リリースの新作「SUONARNE 1 X EDUCARNE 100」は、これまた、挑発的な問題作で、ダニエレ健在を強くアピールするものだ。名義は前作に引き続き、ドイツ語で「ダニエレ・セペと赤いジャズ分派」。このいかにも意味深なネーミングは、やはりというか、70年代のドイツの新左翼党派名のパロディーだそうだ。前作は、ボーカルのかなりを、チュニジア系移民のマルツークがアラブ語で務め、(アメリカ経由の)ジャズとアラブ歌謡の合体というコンセプトが特徴だったが、総じて「まったり」感が強く、「凪」というイメージだった。が、新作では、六八年、あるいはその後の七十年代(アウトノミア)の運動や「鉛の時代」(テロと弾圧の暗澹とした応酬)など、近い過去の出来事を振り返りつつ、皮肉や毒気たっぷりにコラージュした問題作で、音楽的にも超ハイテンション。あらためてダニエレの怪物的パワフルさに持っていかれた。
ここには、東京からの理解を誘う「相似的」なものと、そうでないものが同居している。まず、ダニエレの左翼性。それは自身の選択・性格があるにしても、背景、つまり祖父や父が小作農として、南イタリア特有の保守的な土地制度で苦労した、というプロレタリア的出自があり、さらにそれは、イタリアの、二人に一人はカトリック、もう一人は共産主義者、と言われてきた国民性?の一端だとも言えるだろう。
また、イタリアの70年代は、一般的なイメージは、「赤い旅団」に代表される暴力主義的なテロと、権力の弾圧に暗く彩られた「鉛の時代」だろうが、一方で、「アウトノミア(自律)」という、新左翼自体を相対化するようなオルタナティブな運動の存在も忘れてはならないだろう。そこからは、スクォッタリング(占拠運動)や、労働の拒否(相対化)、マイノリティーの解放など、現在に続く自在な運動が花開いたのだ。(ちなみに、アウトノミアの代表的知識人と目されたのが、「帝国」や「マルティチュード」のアントニオ・ネグリだ。)
さて、そのセーペが10代後半に音楽活動を始めるきっかけとなったのが、労働者音楽グループ「e zezi」(エゼジ)だ。これはナポリ近郊のポミリアーノ・ダルコという、アルファロメオの大工場がある産業都市の、労働者や失業者、はたまた農夫や大学教授とか、世代としては68年世代の人達が始めた音楽・演劇グループで、工場のできた74年位からもう30年位ずっと活動が続いている。
労働者音楽集団、というと、なにやら辛気臭い、退屈なものを連想させるかもしれないが、さにあらず!(まあ、説教臭さは、あるかもしれないが…) これがまたビビッドな演奏で、どこのフェスティバルに出ても平気で受けそうな勢いだ。ナポリ周辺の、独自の民謡などを大切にしながら、歌詞は、政治批判や風刺などを込めて、バンバン替え歌をしまくる。演奏の場も、街頭集会や、地域の祭りなど、路上演奏、移動演奏はお手の物。
チャールズが用意してくれた映像では、エゼジ結成当初のステージで、まだ少年のダニエレが笛を吹いている激レアなシーンも! また、エゼジのパフォーマンスにおける、ビジュアルイメージというかイメージのトータル性、たとえば、伝統的な街頭劇のフォーマットを借りながら観衆を巻き込んでいくようすなど、韓国のマダン劇などとも共通性を感じられる興味深いものだった。
こうして、断片的であれ、映像で見てみると、ダニエレの音楽性の、社会性や、カーニバル的・祝祭的雰囲気の、そのコアな部分はエゼジと共有ないし継承していることが分る。また、エゼジ自体も、自分らのペースで、脈々と30年以上、延べ百数十人にわたって、地道に活動を続けていることを確認できた。
タランテッラ、タムリアータ、といった、ある程度、大文字の地域の伝承音楽が、しっかり存在する傍ら、労働や生活の現場における、地道なオルタナティブの活動も、集団的に継承されている。そんな環境から、現状をつねに挑発し、スパークするセーペの音楽。
とはいえ、もちろん、一般多数の人々は、もっとフツーのポピュラー音楽、文化を享受している。そこで、カギになるモダニズム、現代化で避けて通れないのは、やはりというか、アメリカ文化の影響だ。いうまでもなく、イタリアも第二次大戦の敗戦国として、戦後しばらく、アメリカをはじめとする連合国の占領にあった。ここで否応なくアメリカ文化の影響が登場する。チャールズが紹介してくれた、エレキやドラムなど、アメリカの影響を受けながら、歌謡はナポリ的という、50年代のナポリポップス。そこには、どこか、日本の歌謡曲や演歌、はたまた、初期の沖縄ポップスとも共通するような、ナツカシさ、既視感がある。そして、エゼジやダニエレら(だけではないだろうが)に再発見されるまで、タランテッラなどの伝統性と、現代性を架橋する要素として、戦後の典型的ポップスの流れが、支配的に存在した、と言えるのだろう。
実は、ナポリにも、まだ大規模な米軍基地がある。ただ、日本(基地の大半は沖縄だが)と違うのは、反米意識が常に強烈で、米兵は、うっかり街中に入って来れないくらいだし、イラク戦以降、大規模な反米デモが繰り返されたという。
その違いは、もちろん、端的に親米政権のスタンスの差であり、アジア地域の政治的緊張という環境があるにせよ、あらためて日本の戦後処理の問題の根の深さを感じざるをえない。
不安と希望。暗雲と、そして? 似ているが違う風景。そんな東京で、セーペの新譜を聴きながら、いっとき思いにふけるのも悪く無さそうだ。
検証「地中海音楽の断層・南イタリア音楽シーンの磁場を聴く」
〜となりの芝生から見えてくるモノ
5月末に予定されていたナポリの鬼才、ダニエレ・セーペ来日公演は、直前になり急遽キャンセルになってしまった(家族の健康問題)が、5月26日planBでの「ダニエレ・セーペ来日記念 DJ&トーク 地中海音楽の断層・南イタリア音楽シーンの磁場を聴く」は、期待をさらに上回る面白さ、充実した内容だった。
講師を務めてくれたチャールズ・フェリスをあらためて紹介しておくと、1971年生まれでカリフォルニア大学バークレー校音楽文化学博士課程。現在ミュージシャン/エスノミュージコロジストとしてナポリ在住。トランペット奏者として現地のミュージシャンと音楽活動をしながら、ナポリの音楽シーンを通して移民やイタリア南北問題等、様々な社会問題を考察するフィールドワークに取り組んでいる。
話は、まずナポリ音楽シーンの顔役、ダニエレの新譜の紹介から始まった。2003年の傑作「アニメ・カンディード(率直な魂)」のあと、近作は、やや落ち込み傾向を感じさせたが、昨年リリースの新作「SUONARNE 1 X EDUCARNE 100」は、これまた、挑発的な問題作で、ダニエレ健在を強くアピールするものだ。名義は前作に引き続き、ドイツ語で「ダニエレ・セペと赤いジャズ分派」。このいかにも意味深なネーミングは、やはりというか、70年代のドイツの新左翼党派名のパロディーだそうだ。前作は、ボーカルのかなりを、チュニジア系移民のマルツークがアラブ語で務め、(アメリカ経由の)ジャズとアラブ歌謡の合体というコンセプトが特徴だったが、総じて「まったり」感が強く、「凪」というイメージだった。が、新作では、六八年、あるいはその後の七十年代(アウトノミア)の運動や「鉛の時代」(テロと弾圧の暗澹とした応酬)など、近い過去の出来事を振り返りつつ、皮肉や毒気たっぷりにコラージュした問題作で、音楽的にも超ハイテンション。あらためてダニエレの怪物的パワフルさに持っていかれた。
ここには、東京からの理解を誘う「相似的」なものと、そうでないものが同居している。まず、ダニエレの左翼性。それは自身の選択・性格があるにしても、背景、つまり祖父や父が小作農として、南イタリア特有の保守的な土地制度で苦労した、というプロレタリア的出自があり、さらにそれは、イタリアの、二人に一人はカトリック、もう一人は共産主義者、と言われてきた国民性?の一端だとも言えるだろう。
また、イタリアの70年代は、一般的なイメージは、「赤い旅団」に代表される暴力主義的なテロと、権力の弾圧に暗く彩られた「鉛の時代」だろうが、一方で、「アウトノミア(自律)」という、新左翼自体を相対化するようなオルタナティブな運動の存在も忘れてはならないだろう。そこからは、スクォッタリング(占拠運動)や、労働の拒否(相対化)、マイノリティーの解放など、現在に続く自在な運動が花開いたのだ。(ちなみに、アウトノミアの代表的知識人と目されたのが、「帝国」や「マルティチュード」のアントニオ・ネグリだ。)
さて、そのセーペが10代後半に音楽活動を始めるきっかけとなったのが、労働者音楽グループ「e zezi」(エゼジ)だ。これはナポリ近郊のポミリアーノ・ダルコという、アルファロメオの大工場がある産業都市の、労働者や失業者、はたまた農夫や大学教授とか、世代としては68年世代の人達が始めた音楽・演劇グループで、工場のできた74年位からもう30年位ずっと活動が続いている。
労働者音楽集団、というと、なにやら辛気臭い、退屈なものを連想させるかもしれないが、さにあらず!(まあ、説教臭さは、あるかもしれないが…) これがまたビビッドな演奏で、どこのフェスティバルに出ても平気で受けそうな勢いだ。ナポリ周辺の、独自の民謡などを大切にしながら、歌詞は、政治批判や風刺などを込めて、バンバン替え歌をしまくる。演奏の場も、街頭集会や、地域の祭りなど、路上演奏、移動演奏はお手の物。
チャールズが用意してくれた映像では、エゼジ結成当初のステージで、まだ少年のダニエレが笛を吹いている激レアなシーンも! また、エゼジのパフォーマンスにおける、ビジュアルイメージというかイメージのトータル性、たとえば、伝統的な街頭劇のフォーマットを借りながら観衆を巻き込んでいくようすなど、韓国のマダン劇などとも共通性を感じられる興味深いものだった。
こうして、断片的であれ、映像で見てみると、ダニエレの音楽性の、社会性や、カーニバル的・祝祭的雰囲気の、そのコアな部分はエゼジと共有ないし継承していることが分る。また、エゼジ自体も、自分らのペースで、脈々と30年以上、延べ百数十人にわたって、地道に活動を続けていることを確認できた。
タランテッラ、タムリアータ、といった、ある程度、大文字の地域の伝承音楽が、しっかり存在する傍ら、労働や生活の現場における、地道なオルタナティブの活動も、集団的に継承されている。そんな環境から、現状をつねに挑発し、スパークするセーペの音楽。
とはいえ、もちろん、一般多数の人々は、もっとフツーのポピュラー音楽、文化を享受している。そこで、カギになるモダニズム、現代化で避けて通れないのは、やはりというか、アメリカ文化の影響だ。いうまでもなく、イタリアも第二次大戦の敗戦国として、戦後しばらく、アメリカをはじめとする連合国の占領にあった。ここで否応なくアメリカ文化の影響が登場する。チャールズが紹介してくれた、エレキやドラムなど、アメリカの影響を受けながら、歌謡はナポリ的という、50年代のナポリポップス。そこには、どこか、日本の歌謡曲や演歌、はたまた、初期の沖縄ポップスとも共通するような、ナツカシさ、既視感がある。そして、エゼジやダニエレら(だけではないだろうが)に再発見されるまで、タランテッラなどの伝統性と、現代性を架橋する要素として、戦後の典型的ポップスの流れが、支配的に存在した、と言えるのだろう。
実は、ナポリにも、まだ大規模な米軍基地がある。ただ、日本(基地の大半は沖縄だが)と違うのは、反米意識が常に強烈で、米兵は、うっかり街中に入って来れないくらいだし、イラク戦以降、大規模な反米デモが繰り返されたという。
その違いは、もちろん、端的に親米政権のスタンスの差であり、アジア地域の政治的緊張という環境があるにせよ、あらためて日本の戦後処理の問題の根の深さを感じざるをえない。
不安と希望。暗雲と、そして? 似ているが違う風景。そんな東京で、セーペの新譜を聴きながら、いっとき思いにふけるのも悪く無さそうだ。
[link:38] 2007年07月05日(木) 04:10
「当世音楽解体新書 第22回」
市ヶ谷掃苔記〜なき学館のエコーが聞こえた
法政大学といえば、少し前まで「学館」(自主管理やオープンなイベントで知られた学生会館)を即座にイメージしたものだ。2004年に学館が解体されてからは、もう法政にも縁がないだろうと思っていたが、この秋にまた「自主法政祭」のコンサート出演依頼があり、3年ぶりに市ヶ谷で演奏してきた。
前回のステージは、まさに学館のクロージング・パーティーだった。簡略に振り返ると、2003年、04年とボヤが続発し、消防署の査察・警告もあって、夏ごろには学校当局が建て替えに向け早期の閉鎖を決定。学生たちは、その流れをひっくり返すことはできなかったが、11月の学祭オールナイト・ライブは館内で決行。僕のバンドがゲストバンドに呼ばれ、学館に最後の別れを告げる演奏をしたのだった。
学館は、74年のオープン当初から学生の実力入館による誇り高い自治空間だったが、30年が経ち、吸い殻の不始末や、空き部屋のコンセントに積もったホコリから失火するような、違う意味での危険な施設になってしまった。
当局も、コントロールのきかない学館は、邪魔だったのだろう。04年夏の閉鎖決定後、即座に新施設のプランが発表されたが、あまり手際がよいので、傍目には「不審火騒ぎ」自体に対し不審の念が湧くくらいだった。
(くわしくは拙文「コンクリートは解体できても歌の在りかは消せはしない」=<音の力>ストリート占拠編・所収=参照)
さて今回の話に戻ろう。例年の暖冬とは違い、真冬のような風で、野外ステージは、冗談でなく寒かった。 そして会場は、学館のかわりに建てられた新施設の脇。 また楽屋はまさにその新施設の一室。学館の最期に付き合った僕としては、ちょっと微妙だ。
救いは、スタッフの若い学生達が、てきぱきと、よく動いてくれたことだ。「自主法政祭」とあるように、音響も照明も、裏方もすべて学生が自ら担当するのが学館の流儀だったが、そのスタイルはしっかり継承されていた。ナマの学館を体験した世代は、今の4年生で最後だが、さらに若い世代も含め、彼女・彼らなりに、今はなき学館や、そのあり方を正面から受け止めているようだった。
もちろん、あの独特のホールはもう存在しないし、変に神話化してもしょうがない。しかし一般的には、学館だの、学生自治だの、どこへやら、という流れなのだろう。
だからこそ、昔話としてではなく、今後のためにも学館の記憶を絶やしては、もったいない。お仕着せではない、オルタナティブな公共空間、自律的な場は、必要でありながら、つねに不足なのであり(なぜなら市場原理からはずれているから)、僕らはその種の不足には我慢すべきではないのだ。過去にしがみつくのではなく、あたらしい風に吹かれながらも、「変わり続ける同じもの」の歌に耳を澄ませていこう。
(*)あるブログに、法政の学館の設計者のインタビューが載っていた。かつて法政二部の学生新聞に掲載された記事の再録らしい。「『自由・自治・建築』という設計思想の基、都市をイメージした」などの興味深い裏話だ。「法政大学学生会館 設計者インタビュー」でヒットするはず。