大熊ワタル気まぐれ日記


2005年01月15日(土) いざ神戸へ!

朝9時からソウルフラワーの河村博らと車で移動。ほかにソウルフラワーで最近ベースを弾いているJIGEN君のユニット桃梨の二人が同乗。ボーカルのみほちゃんは初めて会ったが、なかなかぶっ飛んでて面白い。
夕方、大阪へ。ソウルフラワーの根城に向かう車と別れ、自分はさらに三宮に向かう。翌日の「つづら折りの宴」は午前中から始まるし、せっかくなのでBIGAPPLEで吹き初めすべく、ふちがみとふなとに押しかけゲストを申し出てあった。
前半は客席から見物。何度も来ているBIGAPPLEだが、客席で聞くのは初めてかも。何だか新鮮な眺めだ。
ステージは、とぼけたように思わせておいて、最初から気合いの入った選曲。
水爆に怒っているまぐろの歌、これは誰のオリジナルだっけな?
でも、すぐに関節はずしで笑わせてリラックスさせる。さすがだ。
1曲だけ、歌がグラグラと妙に揺れるのがあって、どうしたのかと思ったら、大原裕の曲に歌詞をつけたものだった。
大原、いえぃ!じゅんちゃん泣かしやがって、いえぃ!
後半のゲストコーナーでは、ちょっとはしゃぎすぎて音数が多すぎたかもしれない。まだまだ青いな、自分。
だってふたを開けてみたら、新年早々Walking on the wildside ほか、ご機嫌なことこの上ない選曲なんだから無理もないが。

終演後、ふちふな他京都組をを早々に見送り、お客の倉本君やマスターの近藤さんらとしばし談笑。倉本君から広島備後地方の濁り酒の差入れがあり、全員でびりびりした。
最後に近藤さんら近所の人たちとラーメン屋へ。神戸は、そこかしこにうまい店があり、東京とくらべたら天地の差だ。そこも、どうという店でもないが、そこそこのレベルだ。
さて、ラーメンの湯気の向こうで酔眼を遠慮がちにちらちらさせながら、近藤さんが被災地復興イベントにボランティアでやってくる僕の酔狂さ?にちくちくと疑問を投げてくる。
近藤さんもちろん被災者だ。店ではいつもダメダメオヤジの顔になってるけど、店を維持するための努力は並々ならぬものであるにちがいない。その彼がいつも応援してくれている僕が、ノーギャラ・自腹で来ている。何なん?
まあ、分からなくもない。地元からすれば、年に一度の震災報道や、押しかけてくるおせっかい、違和感もあるに違いない。また実際、しょうもない企画、勘違い野郎も掃いて捨てるほどあるだろう。
お前は何者か? 
ここで、年寄り、しょうがい者、弱者ほど、いつまでも取り残されてる・・・といったスタート長田の取組などは、取りあえずおいておくと、僕は基本的には自分のために来ている。もちろん、スタート長田の立ち退き問題は応援したいし、自分の演奏がちょっとでも役に立てば文句なしだ。でも、頼まれて来ているというよりは、ここで吹きたいから来ている、というしかないかな。
90年代後半、幾度となく大勢の人々と、すばらしい風に吹かれながら演奏の場をともにしてきた。そこで僕は、かたちにならない大きなものをもらってきた。だから、神戸で顔なじみなった人々、久しぶりの人、街並み、六甲の山々、そのすべてに年始回りにきたのだ。そのためなら、10年という区切りも悪くない。

[link:10] 2005年01月24日(月) 06:15


2005年01月16日(日)

 ずい分時間が経ってしまったが、なんとか少しづつ片付けていこう。
 1月16日のつづら折りの宴、17日の神戸市役所前(追悼と抗議の集会)、いずれも凛とした空気のなか、気持ちのよい時間を過ごすことができた。
(両イベントのレポートは「インパクション」145号にも書いた。http://www.jca.apc.org/~impact/magazine/impaction.html
 つづら折りは震災後1年の96年以来9年ぶり。僕はそのときはまだモノノケに合流する前だったので、今回が初めて。
 ではあるが、90年代後半、何度も何度も神戸のいろんなイベントで出会った人々(スタッフやミュージシャン)に再会して、まるで同窓会のようだった。(といっても同窓会なるもの、いまだかつて出席したことがないのだが)
 だいたいモノノケで演奏すること自体、2年ぶりくらいかな?
 ほかにも、小嶋さちほさんや、山口洋、リクオ、などなど、懐かしい顔がそろっていて楽屋は大賑わいだ。
 もちろん、それだけで終わったら話にならない。みんな、短い持ち時間ながらやることはびしっと決めていた。
 僕はモノノケ以外にも、おーまきちまきさんやチンドン通信社にも参加。とくに開演前のちんどん街回りは、街と直接交感するような楽しい時間だった。
 遠くに六甲の主峰が見えている。あの辺で大原が眠っているはずだ。お〜い、来たで。聞こえてるか?

[link:11] 2005年03月22日(火) 04:46


2005年01月17日(月)浦中君宅訪問

夜更けに激しい雨が降り、朝になってもまだ降ったり止んだり。
野外イベントの現場は大変だろう。
神戸市役所前のイベントは昼から始まるが、自分が出るのは夕方のおーまきちまきさんや趙博たちのサポート。
それまでの時間に、西区の故・浦中邦彰君のお母さん宅を訪問してきた。
明石から数キロ北の浅い谷や丘が広がる地域に県営の高層集合住宅が散在する。そのひとつの棟に浦中君の実家があった。ヤクザ組長とトラブルになり拉致された現場は、まさにその棟の真ん前。
車止めのひとつが捩れていたが、そのトラブルの名残りらしい。あまりにリアルだった。
お母さん宅は上層階で見晴らしもよく、海側には明石大橋や淡路島、瀬戸内海などが見渡せるのだが、反対側の真下には、その現場や、すぐ目と鼻の先の交番が見えている。
浦中君は一度交番に助けを求めに行ったのだが、友だちの様子を見に戻り、自分がやられてしまった。この「現場に戻ったこと」が裁判では県警側が、浦中君が自ら危険を冒した(つまり県警の責任ではない)という論拠になっているそうだが、ひどい話だ。
お母さんは持病で通院しながら、単身、裁判でたたかい続けている。
しかし、思ったより全然パワフルで、むしろ圧倒されそうなくらいの勢いで、裁判の経過やら県警への不満など、思いのたけを語ってくれた。
怒り・悲しみがエネルギー源になっているのだろうけど、闘うことによって、息子の霊とともに、自らの尊厳を守っていくのだ、というバイブレーションが実にポジティブだった。
むしろお見舞いしたこちらの方が力をもらったような、妙な按配だ。
年末のお母さんの一審勝訴の後、すぐに県警が控訴したのだが、うかつにも、僕はまだ控訴のことを知らなかった。東京ではほとんど報道されなかったのだ。
不明を恥じるとともに、お母さんのパワフルな笑顔を思い出しつつ、一刻も早い勝訴確定、ないし県警の控訴取り下げが実現するよう、微力ながら見守っていきたいと思う。

(その後、県=県警に控訴を取り下げるよう個人的キャンペーンを張り、藤田正さんのBeat21にも載せていただいた。)
http://www.beats21.com/ar/A05012006.html

[link:12] 2005年04月13日(水) 15:16


2005年06月13日(月) 東地中海・旅日記(序)

 6月、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットの一員として、ピースボートの世界一周クルーズの一部区間=東地中海=に水先案内人として参加してきた。
 ピースボートはその名の如く、平和を求めて民間交流をすすめるNGOであるが、その一方、クルーズも次第に大型化して、扱う客の人数も金も結構な額になってきた立派な営利団体でもある、という不思議な組織である。
 が、ソウルフラワーとは、神戸の震災時、もっとも早く動いたNGOとして、固い信頼で結ばれていて、クルーズの水先案内人もこれで何度目になるだろうか。個人的には97年の東南アジアクルーズ以来の2回目だが、バンドとしては4〜5回目くらいだろう。
 僕の知る運動関係は、たいてい狭い世界の中でどんよりした空気に支配されていることが多いのだが、ピースボートは、(運動関係と言っていいのかどうか、別としても)いつも若い人たちが屈託なく頑張っていて気持ちよい。今回も多くの若い衆が張り切って動いていた。もっとも、乗船客としては、10代〜20代の若者と、50代以降のシニア層に大別され、その間の層はほとんどないない。 
 船は、前回はロシア船籍のボロ船で揺れまくりで閉口したが、今はパナマ船籍の、古いけど(建造後50年弱)シックないい船だった。
 それでは、はじめに自分の行程を記しておこう。
・まず羽田〜関空〜ドバイ空港(UAE)〜アンマン(ヨルダン)の空路。
・そしてアンマンで、パレスチナ難民キャンプを訪問し、ライブ演奏。
・そして、ヨルダン渓谷から死海を経て、本船の待つアカバで船に合流。
・シナイ半島沿岸を回ってスエズ運河に。
・運河を通過し、地中海側の港・ポートサイードから日帰りでカイロ散策。
・帰船し、地中海を縦断、ギリシャのピレウス港へ。
・アテネ観光の後、さらに航行を続ける船を見送り、空路帰国。

[link:14] 2005年08月25日(木) 04:52


2005年06月13日(月) 東地中海・旅日記(その1)

6月13日
 夕方羽田発関空経由ドバイへ。飛行機はJALと提携しているエミレーツ便。
 関空まではJALのそれこそ通勤バスのようなエアバスだが、関空からは機体もエミレーツ航空。女性乗務員が帽子にベールをあしらっていてそれっぽい。最近の旅行通のあいだでは制服や機内サービスなどで人気を呼んでいるらしい。ちなみに「エミレーツ」とは「首長国」。「UAE」の「E」だ。機内食はまあまあ、だが機内ラジオのソフトの充実振りには驚いた。
 アラブ圏の音楽は言うに及ばず、南アジア圏(ヒンズー語圏と、ウルドゥー語圏=パキスタン)、東南アジア(タイ、フィリピン)、中国語圏、そして日本など、さまざまなエリアの音楽をカバーしている。
 タイ、フィリピン、広東語、日本の各チャンネルは耳障りなペラペラしたポップスのみだが、アラブ圏と南アジア圏はクラブっぽいビート音楽と、どっしりした伝統音楽の複数チャンネルを揃えている。メインの客筋のエリアなのだろう。また当然コーランのチャンネルもある。僕も「アラブポップス永遠のビッグスター10人」みたいなチャンネルで、シェブ・ハリドやフェイルーズ、ウマム・クルスームなどを堪能した。この、それぞれがベストヒットみたいな独立したチャンネルがあるのだ。(なかでもフェイルーズはどの曲も最高!早死にして残念!帰路はウルドゥーチャンネルでヌスラット・ファテ・アリ・カーンのカッワーリーを子守唄に…。)
 それから、洋楽の品揃えも半端じゃない。実はこちらのほうが驚かされた。50年代から1年ごとにベスト10(たしかNME誌選定)がすべて聴けるし、アーティスト別のベストセレクトと、それとは別に著名アルバムも、それぞれ100タイトル以上ある。
 10CC(大ヒットを出した分裂後ではなくオリジナルメンバーによる前期のセレクト)だとか、ベルベットアンダーグラウンドなど、かなり通好みのアーティストもとりあげられていた。
 かなり年季の入ったロックファンでも何度乗っても退屈しなさそうだ。欧米人向けのセレクトなのか、オイルマネーでロックファンが増えているのか、よく分からないが、僕も、あの曲、この曲、とついつい聴き続けてしまった。

[link:15] 2005年08月25日(木) 04:52

k-diary script by Office K.

※このページの更新情報はlastmod.txtより取得できます。