大熊ワタル気まぐれ日記


2005年06月14日(火)東地中海・旅日記(その2)

14日 ドバイ空港(UAE)にてトランジット
 ドバイ空港は凄い、と聞かされていたので驚きというほどではなかったが、さすが金満産油国UAEご自慢の空港ということはある。国の規模は小さいが、資金に物を言わせて造った、おそらくはアラビア半島最大の空の玄関なのだろう。
 タックスフリー売場の賑わいと品揃え(ベンツの車まで陳列してある)や、いろんな民族衣装の人々がひっきりなしに行き交うようすなど、まさに諸国民の十字路。空港自体が一大マーケットのよう。例えが悪いが、閑古鳥の関空などとくらべると大変な差だ。アラビア半島のみならず、南アジアからアフリカまで、広大なエリアをカバーする拠点空港となっていることを実感した。
 ところで、この“市場”では、労働力も出入りが活発なようだ。空港のコンコースのいたる所(ベンチの下など)で、床に横たわり爆睡中の人々を見かけた。せいぜい紙か布を一枚敷く程度で、直に寝ている人も多い。南アジア系やアフリカ系だろうか、明らかに外国人の、しかも富裕ではない層で、とにかくくたびれている様子。最初は乗り継ぎの時間待ちなのかと思ったが、どうもそれだけではないようだ。推定であるが、出稼ぎの人々だと見た。

 9時間待ちはさすがに長く、同行の仲間はバーやカフェなどを転々としながらぐったりだが、自分は、とっくに終わらせてるはずの学館の原稿のフィニッシュが間に合わず、機内でイントロを書いたり、ネットがつながらないので、手書きでリライトしてFAXしたり、結構忙しかった。キンコーズみたいな店(国際電話、FAX、ネット)でFAXを出したら2000円分とられて少しショック。何度も出入りしたので、口ひげの親父とお互い顔を覚えてしまった。
 そうこうするうち、ようやくヨルダン行きの便が来た。今度は窓際なので、外がよく見える。
 離陸後、ドバイ沖に妙な形の島が見えたが、どうも人口島らしい。原油の枯渇が迫っているので、観光にシフトしようと、王子がいろいろ事業を展開しているらしい。この島もその一環なんだろう。

 しばらくするとアラビア半島横断で、ひたすら砂漠。たまに幹線道路や灌漑施設が見えるが、なんとも厳しそうな環境。ヨルダンに近づいても緑は見えない。枯れ川の筋のあとが圧巻だった。行く筋も、無数の狂った大蛇がうねったような、不気味な渦巻き(唐草?)模様。
アンマンの空港に接近し、高度が下がりだして、初めて牧場など、人間の営為が目に入る。アンマンの空港は、ドバイなどと比べると、ローカル感満点。改装前の那覇空港の雰囲気を思い出した。
 表に出ると、アメ車が停まっていた。しかも結構古い型だ。いきなり親米国の証しか?

高原の街・アンマン断章
 アンマンは標高700mくらいの高原にあり、湿気も無く、夜は涼しく、過ごしやすそう。平らな高原に刻まれた狭い谷間に形成された旧市街を中心に、周辺の高台を新市街がとりまく。都心部は数十万人規模でもエリア全体では300万人台の人口というから、水源、排水、ゴミなど、どうなってるのか不思議だ。

 夜、ピースボートのスタッフとモノノケのメンバーとで旧市街に繰り出してみた。みやげ物屋、飲食店が賑やかにひしめく繁華街。適当に入ったレストランで、みんなで水パイプにはまった。香辛料の甘い香りなどが特徴で、吸い込みすぎて翌朝頭痛になる者も(某ボーカリストとか)。他の客は水パイプとお茶で談笑していて、あまり食事の客はいない。突然、大量の食事を注文されて店もあわてた様子だが、ちゃんとどこからか、料理が現れた。メインは羊や鶏だが、豆料理(なんでもペーストにする)が美味くてはまった。機内食のあとなので、みんな食べる食べる。それでも山のように余るほどの量。客が残す程もてなす、というのが、こちらの習慣のようだ。

 何百年も続く旧市街の中心部といった賑やかさが印象的。歴史の連続性を感じる。もちろんモスクもある。モスクの緑のネオンと月の取り合わせが綺麗だ。その近くには、有名なローマ時代の円形劇場の遺跡もあって、公園になっている。結構遅くまで家族連れや若い衆が出歩いて、涼しい夜の街を楽しんでいた。女の子もたくさん見かけた。人々の表情からは、経済的にそこそこやっていけてるような安定感がうかがえる。
 ただし、それは対米、対イスラエルなどとの関係において、先王以来積み重ねてきた、アラブ国としては滅茶苦茶アクロバティックな外交政策によるものだろうから、とても微妙なバランスで成り立っている脆いものなのかもしれない。

[link:16] 2005年08月25日(木) 04:53


2005年06月13日(月) 東地中海・旅日記(その1)

6月13日
 夕方羽田発関空経由ドバイへ。飛行機はJALと提携しているエミレーツ便。
 関空まではJALのそれこそ通勤バスのようなエアバスだが、関空からは機体もエミレーツ航空。女性乗務員が帽子にベールをあしらっていてそれっぽい。最近の旅行通のあいだでは制服や機内サービスなどで人気を呼んでいるらしい。ちなみに「エミレーツ」とは「首長国」。「UAE」の「E」だ。機内食はまあまあ、だが機内ラジオのソフトの充実振りには驚いた。
 アラブ圏の音楽は言うに及ばず、南アジア圏(ヒンズー語圏と、ウルドゥー語圏=パキスタン)、東南アジア(タイ、フィリピン)、中国語圏、そして日本など、さまざまなエリアの音楽をカバーしている。
 タイ、フィリピン、広東語、日本の各チャンネルは耳障りなペラペラしたポップスのみだが、アラブ圏と南アジア圏はクラブっぽいビート音楽と、どっしりした伝統音楽の複数チャンネルを揃えている。メインの客筋のエリアなのだろう。また当然コーランのチャンネルもある。僕も「アラブポップス永遠のビッグスター10人」みたいなチャンネルで、シェブ・ハリドやフェイルーズ、ウマム・クルスームなどを堪能した。この、それぞれがベストヒットみたいな独立したチャンネルがあるのだ。(なかでもフェイルーズはどの曲も最高!早死にして残念!帰路はウルドゥーチャンネルでヌスラット・ファテ・アリ・カーンのカッワーリーを子守唄に…。)
 それから、洋楽の品揃えも半端じゃない。実はこちらのほうが驚かされた。50年代から1年ごとにベスト10(たしかNME誌選定)がすべて聴けるし、アーティスト別のベストセレクトと、それとは別に著名アルバムも、それぞれ100タイトル以上ある。
 10CC(大ヒットを出した分裂後ではなくオリジナルメンバーによる前期のセレクト)だとか、ベルベットアンダーグラウンドなど、かなり通好みのアーティストもとりあげられていた。
 かなり年季の入ったロックファンでも何度乗っても退屈しなさそうだ。欧米人向けのセレクトなのか、オイルマネーでロックファンが増えているのか、よく分からないが、僕も、あの曲、この曲、とついつい聴き続けてしまった。

[link:15] 2005年08月25日(木) 04:52


2005年06月13日(月) 東地中海・旅日記(序)

 6月、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットの一員として、ピースボートの世界一周クルーズの一部区間=東地中海=に水先案内人として参加してきた。
 ピースボートはその名の如く、平和を求めて民間交流をすすめるNGOであるが、その一方、クルーズも次第に大型化して、扱う客の人数も金も結構な額になってきた立派な営利団体でもある、という不思議な組織である。
 が、ソウルフラワーとは、神戸の震災時、もっとも早く動いたNGOとして、固い信頼で結ばれていて、クルーズの水先案内人もこれで何度目になるだろうか。個人的には97年の東南アジアクルーズ以来の2回目だが、バンドとしては4〜5回目くらいだろう。
 僕の知る運動関係は、たいてい狭い世界の中でどんよりした空気に支配されていることが多いのだが、ピースボートは、(運動関係と言っていいのかどうか、別としても)いつも若い人たちが屈託なく頑張っていて気持ちよい。今回も多くの若い衆が張り切って動いていた。もっとも、乗船客としては、10代〜20代の若者と、50代以降のシニア層に大別され、その間の層はほとんどないない。 
 船は、前回はロシア船籍のボロ船で揺れまくりで閉口したが、今はパナマ船籍の、古いけど(建造後50年弱)シックないい船だった。
 それでは、はじめに自分の行程を記しておこう。
・まず羽田〜関空〜ドバイ空港(UAE)〜アンマン(ヨルダン)の空路。
・そしてアンマンで、パレスチナ難民キャンプを訪問し、ライブ演奏。
・そして、ヨルダン渓谷から死海を経て、本船の待つアカバで船に合流。
・シナイ半島沿岸を回ってスエズ運河に。
・運河を通過し、地中海側の港・ポートサイードから日帰りでカイロ散策。
・帰船し、地中海を縦断、ギリシャのピレウス港へ。
・アテネ観光の後、さらに航行を続ける船を見送り、空路帰国。

[link:14] 2005年08月25日(木) 04:52


2005年01月17日(月)浦中君宅訪問

夜更けに激しい雨が降り、朝になってもまだ降ったり止んだり。
野外イベントの現場は大変だろう。
神戸市役所前のイベントは昼から始まるが、自分が出るのは夕方のおーまきちまきさんや趙博たちのサポート。
それまでの時間に、西区の故・浦中邦彰君のお母さん宅を訪問してきた。
明石から数キロ北の浅い谷や丘が広がる地域に県営の高層集合住宅が散在する。そのひとつの棟に浦中君の実家があった。ヤクザ組長とトラブルになり拉致された現場は、まさにその棟の真ん前。
車止めのひとつが捩れていたが、そのトラブルの名残りらしい。あまりにリアルだった。
お母さん宅は上層階で見晴らしもよく、海側には明石大橋や淡路島、瀬戸内海などが見渡せるのだが、反対側の真下には、その現場や、すぐ目と鼻の先の交番が見えている。
浦中君は一度交番に助けを求めに行ったのだが、友だちの様子を見に戻り、自分がやられてしまった。この「現場に戻ったこと」が裁判では県警側が、浦中君が自ら危険を冒した(つまり県警の責任ではない)という論拠になっているそうだが、ひどい話だ。
お母さんは持病で通院しながら、単身、裁判でたたかい続けている。
しかし、思ったより全然パワフルで、むしろ圧倒されそうなくらいの勢いで、裁判の経過やら県警への不満など、思いのたけを語ってくれた。
怒り・悲しみがエネルギー源になっているのだろうけど、闘うことによって、息子の霊とともに、自らの尊厳を守っていくのだ、というバイブレーションが実にポジティブだった。
むしろお見舞いしたこちらの方が力をもらったような、妙な按配だ。
年末のお母さんの一審勝訴の後、すぐに県警が控訴したのだが、うかつにも、僕はまだ控訴のことを知らなかった。東京ではほとんど報道されなかったのだ。
不明を恥じるとともに、お母さんのパワフルな笑顔を思い出しつつ、一刻も早い勝訴確定、ないし県警の控訴取り下げが実現するよう、微力ながら見守っていきたいと思う。

(その後、県=県警に控訴を取り下げるよう個人的キャンペーンを張り、藤田正さんのBeat21にも載せていただいた。)
http://www.beats21.com/ar/A05012006.html

[link:12] 2005年04月13日(水) 15:16


2005年01月16日(日)

 ずい分時間が経ってしまったが、なんとか少しづつ片付けていこう。
 1月16日のつづら折りの宴、17日の神戸市役所前(追悼と抗議の集会)、いずれも凛とした空気のなか、気持ちのよい時間を過ごすことができた。
(両イベントのレポートは「インパクション」145号にも書いた。http://www.jca.apc.org/~impact/magazine/impaction.html
 つづら折りは震災後1年の96年以来9年ぶり。僕はそのときはまだモノノケに合流する前だったので、今回が初めて。
 ではあるが、90年代後半、何度も何度も神戸のいろんなイベントで出会った人々(スタッフやミュージシャン)に再会して、まるで同窓会のようだった。(といっても同窓会なるもの、いまだかつて出席したことがないのだが)
 だいたいモノノケで演奏すること自体、2年ぶりくらいかな?
 ほかにも、小嶋さちほさんや、山口洋、リクオ、などなど、懐かしい顔がそろっていて楽屋は大賑わいだ。
 もちろん、それだけで終わったら話にならない。みんな、短い持ち時間ながらやることはびしっと決めていた。
 僕はモノノケ以外にも、おーまきちまきさんやチンドン通信社にも参加。とくに開演前のちんどん街回りは、街と直接交感するような楽しい時間だった。
 遠くに六甲の主峰が見えている。あの辺で大原が眠っているはずだ。お〜い、来たで。聞こえてるか?

[link:11] 2005年03月22日(火) 04:46

k-diary script by Office K.

※このページの更新情報はlastmod.txtより取得できます。